『SOUL SEARCHING』(己と向き合う)
「野暮な者は人の所為(せい)にするが、
粋な者は反省(はんせい)する」
難しく考えることはない…
SIMPLE(単純)に生きればいい…
気張ることはない…
リラックスすればいい…
周りを気にしても仕様がない…
最後は己の直感で
進んで行けばいい…
人の所為(せい)にしても仕様がない…
己のケツは己がふけばいい…
人を見下すことは
己の心が狭いことを
宣告(せんこく)しているのである。
THE BIBLEには
「欲がはらむと罪が生じ、
罪が熟(じゅく)すると死がおとずれる」
とある。
人は誰であれ愛欲の大海に
沈没(ちんぼつ)し、
名利の大山に迷ってしまう
罪業深重(ざいごうじんじゅう)の
凡夫である…
手を出さなくてもいいのに
手を出してしまい…
味わなくてもいいのに
味わってしまうのである。
それが己のためにも、
また人のためにもふさわしくないと
分かってはいても、
かかわってしまうのである。
大いなる存在の愛を体験し、
生き方を通して
粋(いき)な己を実践して行けるはずの
男(アダム)は己が問われた失敗を
女(エバ)の所為にしてしまうほど
野暮な己寄がりの人間に
成り下がってしまうのである…
間をとって己と向き合うことである。
それは己が生き動き存在しているのは
偶然ではなく摂理(せつり)であることに
気づかせてくれる…
自分が今、在(あ)るのは
「わたしは在(あ)る(I AM)」
と言われた大いなる方が
存在するからである。
この存在こそが
自分がどこから来て、
またどこに向かって行くのか…
そして何のために今、
自分は生きているのか…
という誰もが自分に問い掛ける
人生の疑問に答えを
見出させてくれる方でもあるのだ。
理想と現実の狭間で
没頭(ぼっとう)と葛藤(かっとう)を
くりかえす我々のために
「父よ彼らを
ゆるしてあげてください…」
と十字架の上で罪のゆるしを
自らを犠牲(ぎせい)にして
与えてくれる
存在(そんざい)こそが
本物の神なのである。
大いなる存在は
あなたを見捨てることはない…
今日も…また今も…
あなたのそばに…中に…共に…
いてくれているのだ…
しばし静まって心を落ち着けてみると
その当たり前の真実に
心はいやされるにちがいない…
今日こそがそのことに
気づかされる日であります様に…
『己と向き合えば、本質に出会える』
アーサー・ホーランド
2019.6.8
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