『ALONE BUT NOT ALONE』 (ひとりではない)
「ひとりであってもひとりではない。」
まずは今いる場所から出ることである。
孤立することと己と向き合うこととは違う…
己が自立し、何をどうすべきかを決断するのに間をとることは、知恵ある行為である。
人にどう見られ、どう思われるのか…と気にするのは認知要求の表れである。
あなたの存在価値を無視して世のため人のため、と言う貢献はありえない。
夏目漱石は著書「草枕」の冒頭で、
「山道を登りながらわたしはこう考えた…
智(ち)に働けば
角が立つ。
情(情)に棹(さお)させば
流される。
意地を通せば
窮屈(きゅうくつ)だ。
とかくにこの世は住みにくい。」
と謳っている。
引きこもりがちで心が萎えていた漱石は、こもっていた場所から一歩踏み出して
「山道」、すなわち、自然界に出向いて行ったのである。
こもっていた場所で主観的になっていた己から開放感を感じる自然の景色と向き合い
主観的客観性をもって己を見つめ直すのである。
詩篇には
「静まってわたしこそ神であることを知りなさい。」
とある。
また魂のROCKER JESUSも
「一人で寂しいところに行かれた…」
とある。
我々が日々使用する携帯でも充電が必要ならばあなたの魂も充電が不可欠である。
あなたが煮詰まった時は間をとることである。
誰であれ、しばし、気分転換できる間の空間を自分のために持つことを心がけることである。
間が抜けると「間抜け」と書くように、あなた自身こそ「神の宮」であり
大いなる存在(創造者)が住む場所なのだ。
ひとりになることはそのことに気づかされることでもある。
「神(大いなる方)は、あなたの遠くではなく、いつも近くにいてくれている。」、
という当たり前のことに目覚めさせられることでもある。
それこそ礼拝の本質である。
今日という日があなたにとって、しばし間を取れる日となりますように…
「ひとりになる能力は愛する能力の前提である。」エーリッヒ・フロム
2020 年 1月 14日 火曜日
アーサー・ホーランド
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