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宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」を体感する最も感動的な方法を、まず記したいと思います。
物語のおおよそは、ご存知だと思います。
舞台は二人の少年がSL列車に乗って、銀河(天空)に向かう空想世界です。

東北新幹線に乗車して、新花巻で下車します。
釜石線に乗り換えたら、しばらくキハ101の揺れに体を預けて、山に向かいましょう。

そして、気に入った小さな駅に停車したら、迷わず下車してください。
短いホームは列車が見えなくなると、静かな、たたずまいに包まれることと思います。
夏なら木陰にベンチがあったら最高です。
日差しが恋しい季節なら、太陽の光を浴びて温まったホームに、直接座ってもいいでしょう。

環境に馴染んだら、あらかじめ用意したヘッドホンを耳に、音楽を再生してください。
「銀河鉄道」の物語を頭に描きながら、ドヴォルザークの9番、「新世界」を聴きましょう。
賢治お気に入りの交響曲です。

決して難しい曲ではありません。
日本の鉄道が、新橋~横浜間を開通した20年後、アメリカで作曲しアメリカをテーマにした交響曲です。
多少の民族的メロディが心に浸透し、きらきらした輝かしさと、力強い希望を感じるはずです。

人は誰しも挫折を経験します。賢治とて例外ではありません。「新世界」はそんな賢治の心をいやし、希望をも与えたと思うのです。

旋律を奏でる各楽器の特徴がはっきりしているのは、何より感動的で、レコードの再生能力を意識しているようでもあります。
私は特にメリハリのあるティンパニーの使い方が気に入っています。トンネルを抜け出た機関車のようだし、オーボエの甘い旋律からは、遠く行く軽便鉄道を想像出来ます。人によっては、45分間の全編、添乗車窓風景と感じる方もいるでしょう。
トライアングルも使用していますが、賢治が聴いたSPレコードでは、おそらく再生されなかったたことと思います。いえ、もしかしたら彼、上京して帝国劇場などで生演奏を聴いているかもしれません。「新世界」の日本での初演は1920(大正9)年、賢治25歳のときでした。

「新世界」かどうかは不明ですが、賢治は生のオーケストラを聴いているかもしれません。
「銀河鉄道の夜」には、「青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のように烈しく振りました」という描写もあります。
(映画でも見ることは出来ましたが・・・)

賢治は大の音楽好きでした。
花巻のレコードショップの売り上げは極端に高く、問屋さんからでしょうか、表彰されたほどだといいます。
「銀河鉄道の夜」では、4つの西洋音楽が登場しています。

 モツアルトの歌劇 「ドン・ジョバンニ」
 リストのピアノ曲 「ラ・カンパネッラ」
 ドヴォルザークの交響曲9番 「新世界」
 モツアルトのピアノ曲 「きらきら星変奏曲」

このうち、文章の中に、静かな旋律が流れてくるのは「新世界」で、
前の2つは、物語の主人公の名前になっています。
少年、ジョバンニと、その友人、カンパネルラです。

「キラキラ星」はピアノ曲ですが、
賢治が東京まで習いに行った、チェロでもメロディを弾くことができます。
まったくの初心者でも、ものの5分とかからずに奏でることが可能なので、
成功の感激は、賢治も大きかったと思います。
(私は昔バイオリンで試したが、弦2本、指で押さえるところ2か所。それだけOK)

「カンパネラ」は、似た名前がアンデルセンの文章(自伝的小説、「即興詩人」、文体影響あり)にも出てきますが、
和名のツリガネ草(ホタルブクロ)は自生もしているので、馴染みの花だったことでしょう。
東北地方での栽培も容易です。
とても可憐な花姿なので、私は最初、文中のカンパネルラは女性かと思ってしまいました。

私が最初に「銀河鉄道」の本を開いたのは、小中学生の頃だと思います。
しかし、わずか数行で挫折しました。理由は主人公たちの横文字の名前です。
思惑違いの大ショック。日本民話の延長だと考えていたからです。

2回目は中高生の頃でしょうか、床に入って寝ながら読みましたが、すぐに眠りに入ってしまいました。
3回目は「サライ」のインタビューの直前でした。これは今年(2016年4月)。
「感想を」とか、「普段の生活で影響を受けていることなど…」といわれても、やばいことに、その時点でまだ最後まで読みきっていなかったのです!
一旦考えてしまうと、なかなか前に進めませんでした。

しかし、ジョバンニという主人公の名前の意味合いは、子どもの頃はまったく気づきませんでしたが、モツアルトの歌劇のタイトルから来てたんですね。これはこれまでどなたも指摘していないようです、なぜか・・・。
物語のドン・ジョバンニは放蕩息子という設定ですが、女たらしの代名詞、ドン・ファンが下敷きになっています。

友人の名前、カンパネルラは、ピアノ曲から付けられました。当時のSPレコードの場合、オーケストラでのピアノはほとんど消えて、存在が危ぶまれるほどですが、ピアノ曲なら大丈夫、メロディと雰囲気はしっかり理解できたと思います。
(実は私は、SPレコードコレクターです。大部分オーケストラやソナタなど)

ところで、賢治の物語には、対比が良く出てきます。
「シグナルとシグナレス」もそうですが、活発すぎるドン・ジョバンニに対して、穏やかな感じのカンパネッラ。
それから、地元の日本人が横文字の名前に対し、いつの間にか乗車してきた外人、タイタニックでの遭難者が、和名になっています。きくよねえさん、とか、タダシ、とか・・・。

面白い対比ですが、ここではもう一つ対比があります。
モテすぎ、ドン・ジョバンニに対し、まじめすぎるほどの賢治。
モテない賢治(失礼)。
ひょっとしたら、主人公に若干の憧れを篭めていたかもしれません。

賢治の文章を、ひもとくと、憧れがみえてきます。
賢治自身が西洋文化にあこがれていたことが理解できます。
それも、東北人特有の憧れといったら過言でしょうか。

東北生まれの、賢治だけがとりわけ憧れが強かったわけではありません。
賢治ほどではないにしろ、周囲の人々もそれなり、異文化に引かれていました。
賢治の父親の職業(の一つ)は古着屋でした。山陽や四国で求めた古着を売って、生計を立てていたようですが、
ほどほど高価なのによく売れ、裕福でした。
周囲の住民たちが、柄や材質の異なる西の異文化に憧れを持っていたからこそ。

しかし賢治は、西洋をはじめとする異文化がすべてよし、東北はだめ、という構図ではなく、
地元東北もこよなく愛しているところなどは、先輩の石川啄木と同じようで、好感が持てます。

憧れの西洋文化は、「銀河鉄道」の2章から3章に渡る数行にも、ぽろぽろと出てきます。
銀貨、鞄、パン屋、角砂糖、紫ケール(キャベツ)、アスパラガス、日覆い、靴、牛乳、トマト・・・。
中ほどでは、白い十字架や、ハレルヤもでてきます。

驚きは、白い羽を頭につけたインディアンが弓矢を持って、銀河に行く列車を追いかけてくるというのです。
上野か浅草で、西部劇を観たのでしょうか・・・。
映画は最先端の西欧文化でした。

西洋文化そのものもそうですが、そのほかの新しいものも大好きでした。
鉄道という新しい乗り物には、大いに興味を抱いていたようで、身近な東北に新線が開通すると必ずといっていいほど乗りに行っていました。部分開通した五能線にも乗車しています。
新線乗車区間に関しては、詳しくまとめている研究者がいますが、
「銀河鉄道」こそは、賢治自身が敷いた、最も重みのある“新線”です。

賢治が初めて汽車に乗ったのは、いつのことでしょうか。
定かではありませんが、小学校の修学旅行で花巻から盛岡に行ったときのように思います。
車内から眺めた驚きの光景は、「銀河鉄道」の中に生かされています。

列車から、距離の異なる2つの物体、たとえば手前にある電柱と向うにある電柱が、列車の進行に従って一つに重なり、離れていくという光景がとても印象的だったのでしょう。
初体験ほど、こうした印象は強く残るはずで、物語では二つの建物の屋根にある飾り、サファイアと、トパースの重なり離れていくようすが描かれています。

「銀河鉄道」のモデル鉄道は、賢治の地元、岩手軽便鉄道が定説になっています。
たしかに文章の中には、
「小さな列車が走りつづけていたのでした」
「夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車窓に」
というように、軽便鉄道と記されていたり、それらしい描写があります。

しかし私は、賢治が経験した鉄道すべてがモデルであると思います。
それは、「銀河鉄道」執筆が、かなり後期と思われ、各地の鉄道の乗車経験を持った後だからです。
夜行列車や昼の列車で、たびたび東京にも向かっています。
そして決定的なのは、文中にクロスシートの描写が、何回も出てくることです。

岩手軽便のレール幅は、762mmです。したがって車体幅も狭く、すべての客車がロングシートでした。
わすかに、魚沼鉄道から来たマッチ箱車輌(ロ30~33番)(外寸1676mm)(岩手軽便では並等)が、貫通扉のない連結面に座席を設け、サイドの窓を背にしたロングシートと一体化して、L形配置にしていました。それだけです。

文中の車内描写で、クロスシートならではのものを記しますと、たとえば、
「大人の声が、二人のうしろで聞こえました」
とあります。ロングシートなら声は前から聞こえてくるはずです。

軽便の車輌はすべてロングシートなのかというと、例外はあります。
片側だけクロスシートというのが、知る限り2例。下津井電鉄と草軽鉄道にありましたが、いずれも外板は鉄なので
かなり後期に作られたもののようです。

そのころ車内照明は、すでに電灯になっていました。でもロ30~は天井にわずか1個だけ、それも暗いものでした。
文中、室内灯のことが、2回出てきます。
グローブにカブトムシがとまっていて、影が大きく天井に映っているということと、夜汽車の中で
「姉はわらって眼をさましまぶしそうに両手を眼にあててそれから」
というくだりがあります。
軽便の室内灯は、たとえ目覚めでも、そこまで明るく感じないので、東北本線(鉄道院)列車での経験のように感じます。

「荷物をゆっくり網棚にのせました」
という文章もありました。
岩手軽便の客車に、網棚はありません。軽便車輌は天井が低いので、網棚の設置が出来ないのです。

銀河鉄道に乗ったジョバンニとカンパネルラの行き先は、定まっていませんでした。地上を離れるにしたがって、
「ごとごとと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました」

そんな車内で、乗客の一人、灯台看守がリンゴを振舞いました。
「黄金と紅でうつくしくいろどられた大きなリンゴ」です。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派なリンゴは」
一人の青年が尋ねると、
「この辺では農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種さえ撒けばひとりでにどんどんできます」

私はこうした文章に、農学校で教鞭を執る賢治の挫折と理想を感じました。
米ですら年毎に大きな収穫変化があるこの時代の東北地方です。そこで従来農法や新しい理論と実践を教えることの困難さに直面していたことは、容易に想像できます。布団に寝付くことが出来ず、闇の中に立ち尽くしたこともあったことでしょう。

賢治の記した物語のタイトルは「銀河鉄道の夜」となっています。
単に「銀河鉄道」でもいいし、「私の銀河鉄道」でも良かったように思います。
しかし、「夜」にこだわったのは、理由があってのことのようです。

賢治は闇の中で汽車を見ました。
夜というのは不思議なことに、音を明確に捉えることが出来るのです。
何度か経験するうちに、夜汽車のライトが川面に映る光を“発見”します。
これが、岩手軽便と本線を対比した「シグナルとシグナレス」にも生かされていますが、
賢治は、闇の中に光と希望を見出したのです。

輝きと、人が生きていくための希望。これこそが「銀河鉄道」のテーマになっています。
そのための対比として「夜」が必要だったのです。
「銀河鉄道の夜」には、車窓からの描写が数多く出てきます。

「青いカンランの森が見えない天の川の向うにさめざめと光りながら・・・」

「じっと川の微光を受けて」

「ひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいついて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした」

「いまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとじたりする光の反射を見ました」

これらが夜のシーンであることは定かで、
「ジョバンニはもう(窓から)頭を引っ込めたかったのですけれども(車内の)明るいところへ顔を出すのがつらかったので・・・」と夜汽車であることを表しています。(カッコ内は広田記入)

闇夜があるから、光の描写が生き生きとしてきます。
見事なコントラスト、対比が生かされて、賢治らしい文章が成り立っています。

生きる希望については、サザンクロスステーションで下車する子どもたちと神について語るところがあります。
下車して天井の神のもとに行くより、我々と一緒にもう一つの神のもとにゆきましょうと誘います。
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です」
という言葉をちりばめながら、宗教的観点から、人の幸せを解こうとしています。

そうしたフレーズと共に私は、鳥捕りの言葉に、がってんしました。
「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」
この人生訓が私のこれまでの行いに当てはまっていたことに驚くと共に、
お金のためのみに、あくせく働く愚かさを改めて知る思いがしました。

私は賢治の作品すべてに目を通しているわけではありません。
読んでいないほうが多数を占めています。
そうした中で、もう一つ私の生きてきたこれまでと合致するものがありました。

それは、マグノリアを捜し求める賢治です。
私、広田は自己の作品を100%満足に思ったことは一度もありません。
常にもう一歩前をと、よりよいものを求め、気がつけば今日に至っていました。

物語の主人公(諒安。この場合賢治としたい)が、マグノリアの白い花を求め、厳しい山谷の刻みを、いくつもいくつも越え、靴の底が抜けながらも捜し求めます。
マグノリアは、モクレン科の総称で、この場合、絶対的幸せの象徴、覚者の善といわれています。
捜せど見つからず、疲れ果てて、ふと、今自分が渡ってきた方向に目をやると、霧の晴れ間に咲きそむるマグノリアがあったというものです。

不勉強の私は、この5月まで、賢治の本は所有していませんでした(子ども時代は別として)。しかし、彼の言葉が私の生きてきた道程と当てはまることに、正直恐ろしさを感じています。
本来この稿では、自分の経験は切り離し、賢治の考え方だけを記すつもりでしたが、筆がすべりました。

「銀河鉄道の夜」は、彼の死後発見された原稿で、未完です。抜けている箇所もありますし、まとまった推敲もされていません。
たとえば、母親の記載も、お母さん、おかあさん、おっかさん、と一定ではありません。
タイタニックの災難にあった女の子も、かおる、かおる子、かおる姉さん、姉、女の子、とさまざまです。
原稿は間をおき、慈しむように記していった表れと思われますが、そこに、前へ前へとあくなき追求を憚らぬ現代社会への警鐘も伺えるようでならないのです。

P1790272

「サライ」2016年6月号は、宮沢賢治特集号でした。今年は生誕120年だそうです。

雑誌の発売直後に紹介するつもりでしたが、仕事の撮影などで遅れてしまいました。

P1790273

宮沢賢治の有名な写真です。彼はクラシック音楽ファンで、ベートーベンの交響曲6番「田園」も

好んでいたそうです。それは教鞭を執る農業ともかかわりがあるからでしょう。

この写真は注文して田園で撮影してもらったというエピソードがありますが、もう一つ、私は秘密を感じます。

それは一回り上で同時代を生きた竹久夢二ファンでもあったようで、カメラの右下を見る目線にそれが

感じられます。シャイな賢治は、そのことは誰にも伝えなかったことと思われます。

(サライ2016年6月号より)
P1790278

「銀河鉄道の夜」の原稿です。自身でかなり手を加えていますが、パソコン原稿ではこうした移ろいが

分からなかったところでしょう。丹念に見ていくとさまざまなことが理解できて、貴重な資料です。

(サライ2016年6月号から)
P1790274

本文のいち部です。(サライ2016年6月号より)

P1790276

掲載されていた、岩手軽便の写真です。大正2年ころの貴重な写真で、北上川を渡る花巻発の下りミキスト!
イギリス海岸はここから数キロ左になります。(サライ2016年6月号より)

 

 

 

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