偏執狂短編集III 正常の限界へ
今の私は役者ではない。きっと被写体でもない。私はマテリアルだ。身体的素材として生きている。
その立場の感覚のまま、私から観た偏執狂短編集IIIの話をしたいと思う。
それが偏執狂短編集IIIの依頼だった。
私は内容に惹かれ、少し悩んで、まず断った。ような気がする。
私は体が強い方ではないし、人と長時間同じ空間にいるのも、同じ場所にいるのも、本当は発狂したいくらい嫌いだ。
そしてその期間の別の仕事との兼ね合いを考えると、難しいと思った。
仕事とは金である。
趣味は金ではない。真剣な道楽だ。
今の私にとってヌードモデルの依頼は仕事である。
納得のいかない体型であれば泣きながら一晩吐き続けるし、汗をかきたくなければ塩飴を舐めて水分を最低量に抑えて生活をする。
健全ではない、けれど非健全な自分が好きだ。
私は、美味しく食べて楽しく生きたくなんてない。そんなのちっとも美しくない。
画家が筆を持つように、写真家がカメラを持つように、私は体を検分して生きている。体はマテリアルだ。
偏執狂の依頼者(名前は伏せます)はとても誠実だった。こちらのいう事務的なメールにも真摯に返し、向こうの都合も最低限伝え、そして私はギャランティーと時間の拘束に快諾した。偏執狂には、それだけの魔力もあった。
実際に過去にあった、狂気的殺人、あるいは悲劇を元にした6つの短編を3つづつ、2つの章にして上映する。
私は普通が嫌いだ。嫌悪しているともいえる。
私は普通の女の子になりたかった。普通に仕事をして、休みの日には好きな人と近所の公園を散歩して、ご飯を食べて、セックスをして、ベッドの中で会社の愚痴や将来の夢を話せるような女になりたかった。
普通という言葉は、私には理想という言葉に聞こえてとても遠い。
だからこの劇団が、どこまで普通から外れてくれるのか、近くで見ていたかった。
私が出演させて頂いた中で一番好きな短編は「バートリ・エルジェーベト・リバイバル」である。
この短編で、私は三回死ぬ。金の櫛で刺されて、生きたまま斧で引かれて、アイアンメイデンで血を抜かれて。
私は何度でも生き返る。生き返って美の糧になる。
それは自分が美しくなることより、ずっと人任せで、気楽で、奔放だった。
被写体としての重みから解消されるような配役だった。
私は美しくいたい。
美しさは金になる。金はいくらあってもいい、使わなくても金は魅力を失わない。
正しいものを正しいといえる世界に生まれたかった。
「メンゲレとグレーゼで」の中で、冷え切った被験者の腕を温めながらそう思った。
正しさが私を殺さない世界に生まれたかった。
その言葉はきっと、「ジャンヌ・ダルク異端審問」でジャンヌが声を枯らして叫んでくれているそのままなのだろうけれど。
私はこれからも、老いる私に怯え、太る体に恐怖し、吐いたりサプリメントに頼って見たり、食べなくなったり特定のものだけを食べて見たり、そういう異質さを肥大させて生きていくのだけれど、そういう異質さの部分だけを静謐に強く照らしたような、そうしたら血が流れていることに気づいたような、そんな舞台だった。
バートリ・エルジェーベト・リバイバル
全員での集合写真
おまけ
デスノートを監督された、金子修介監督が観劇しに来て下さいました。
ありがとうございました。
ああ現実に戻ります。
あなたたちが非日常と呼ぶ、私の日常が返ってくる。
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