喜多方を行く。
またまたこんばんは!久城ほゆきです(=゚ω゚)ノ
年明けも間近ですが、その前に喜多方新選組巡りのお時間でございます。
前回は無駄に前振りだけで記事を設けてしまったので、今回はさっそく本題に参ります(笑)
喜多方における新選組の戦いは二つです。高郷町「陣が嶺峠の戦い」と山都町「舘原の戦い」。
喜多方に入るところから簡単に流れを追いますと、
8月23日、母成峠から撤退したものの若松城が既に籠城戦に突入してしまい行き場を失った新選組は塩川、そして大塩宿へ。ここに新選組約千人が集結したと言われています。すごい。
小田付代官所跡(御蔵稲荷神社)
新選組が昼食をとったと言われております。得られた資料からは日付まではわからなかったのですが、
ここで大鳥圭介も合流したらしいというので、土方が会津を発つ前のこのタイミングだったのではないかと…
そして8月25日、土方は援軍を呼びに米沢へ。
援軍を呼ぶというと、また戻ってくるような印象ですが、この時点で土方は仙台方面での巻き返しを描いていたのでしょう。
会津藩とともに最後まで戦うことを主張した山口(斎藤)とはここで別れます。
ここが、新選組の短くも濃く激しい歴史の中で、久城が個人的に最も好きな局面です!以前熱く語ったので今回は割愛します(興味を持っていただけた方はこちら→会津戦争を歩く。その五)
庄内藩が新政府軍に恭順したため土方は援軍を諦め、さらに仙台へと進みます。
一方の山口は再び塩川へ移ります。これが8月26日。
ここで本陣としたのが斉藤忠兵衛宅で…行ってみたいなぁ。場所もわからなければ、そこが今現在どのような姿なのかも知り得ませんでした…
次は9月2日。(これまでの間は体勢を立て直しでもしていたのでしょうか)新体制となった山口率いる新選組は喜多方市内の高郷町陣ヶ峯峠付近で奮闘。
峠というくらいですから山道です。繁みの中に、当時の戦闘の痕跡が今も残っているのだとか。非常に魅かれますが、とても一人で足を踏み入れられるような場所ではなさそうだと泣く泣く回避。
そして、その二日後9月4日、今度は山都町の舘原という所で激戦が繰り広げられます。
はっきりした情報はなかったのですが、広い台地が広がっていて…この辺りが戦場になったりしていたのかな?…と。勝手な想像ですが感慨深い。
この戦いの折に、新選組の宿営地となっていたのが館原代官所です。もうほとんど何も残っていないのですが、代官所を取り囲んでいた堀に渡された石橋の一部が、唯一の遺構として今も残っているのだそうで。
おそらく、これ。(笑) 石橋、見えますか?
落ち葉に埋もれていてなかなか見つけられなかったですし、本当にこれなのかも怪しいですが、堀の一部と石橋であることは間違いなさそうです。
おわかりいただけただろうか?(笑)
けっこう興奮しました(。-_-。)
これは、また落ち葉のない時期に訪れて確認してみたいですね。
そして、館原から退いた会津軍が陣を敷いたのが、山都町木曾の宗像神社。
しかし、山口ら新選組は山都での戦闘後すぐに、以前ご紹介した若松市内の如来堂(これに関しても詳しくはこちら→会津戦争を歩く。その五)へと向かっているので、この宗像神社には寄らなかったかも…?
と!いうことで!謎だらけで何とも曖昧な部分ばかりですが、喜多方新選組巡り紹介、以上となります!
なかなかマニアックでしたでしょう…?(笑)
まだまだわからないことだらけの福島における新選組の戦歴…
来年はもっとたくさんの場所を訪れ、学び、私なりの言葉で伝えてゆくことができればなと思います!
最後までご覧いただきありがとうございました!
それでは、今度こそ。
皆様、良いお年をお迎えくださひ☆