師走です。
なんか忙しいです。
でも良い新年迎える為に時間を大切にして頑張ってやらなきゃと思っています。
『我、汝を軽しめず。どんなに上手くいってても傲り高ぶりがあってはならない。これは師の教えだ。』
25年くらい前にそう醍醐監督はよくミーティングで話してた。印象に残っている。
他にも沢山教えて頂いた。
沢山叱られた。
私にとっては“師”の1人だ。
25才の時に開幕から2度目のアメリカ留学をしていた。今でいう海外派遣だ。
バイセリアという街のチームに入りカルフォルニアリーグで3ヶ月プレーした。
醍醐さんも一緒に帯同して寝食を共にした。
アパートみたいな所に住んでいて、選手の部屋とコーチの部屋は別々だった。
夜、ちょくちょく部屋に呼ばれて、ウィスキーグラスを片手にした醍醐さんの話を聞かせて頂いた。
自身の野球の経験談や人生の事など、普段浦和の球場では話さないような事を沢山聞かせて頂いた。
我々(他3名の選手も一緒)は肉が食べたいのだが、醍醐さんはいつも日本食の魚の店に連れて行くのも思い出だ。
今となってはその気持ちよく理解できる。
アメリカ留学以前からも、浦和の室内で居残り特打で投げて頂いたり(すごく打ちやすい。ちょっとサイドスローで)、都内の荒川さんの自宅に連れて行ってもらい、畳の上で裸足で死ぬほどバットを振らせて頂いたり、外野守備でファインプレーして怒られたり(『いいから打て!』と…その日はバッティングが調子悪かった)と、本当にこの不器用で下手くそな私なのに目をかけて頂いた。
聞いた話だが、二軍監督時代のある時、門限を破った選手がいて(私ではないが)、寮長が罰金を取ったらしく(当時は罰金が当たり前の時代)、『若いやつは遊びてーんだから、そんなに取るな!』と寮長の方が怒られたらしいという逸話がある。20代前半の私は、なんて理解ある監督なんだと思った。
一番学んだ事は“気”。
『臍下三寸、臍下丹田に気を下げろ』
兎に角よく言われた。
『そこに気を集めれば、変化球だろうが直球だろうが良く見える。
腹の立つ事があっても“ふーーっ”とやれば気持ちが落ち着く。構えた時から打ち終わるまで気を下げろ。』
それまで打撃はフォームの事とバットの使い方を主に教わって来たが、初めて具体的な精神世界の事を教えて頂いた。
ちょうど25才の時のアメリカ留学前に教わり、それまで6年間思うように行かない日々が続いていた私は、姿形じゃなく、その“臍下丹田に気を下げる”という事一点に集中してカルフォルニアリーグで実践して行った。
成果はあった。
今まで打てなかった右の外のスライダーが見えるようになった。
同時にチャンスでも落ち着いて打席に立てるようになった。
その年のシーズンは6月下旬に帰国してからずっと最後まで一軍にいた。
オフの契約更改では『得点圏打率が高いけど、何か打つ方法変えたの?』と、球団代表が訊ねて来た。
私は迷わず『臍下丹田に気を下げる事に取り組みました。』と答えた。
『じゃあこれは皆に教えたくないでしょう?』と言うので『いえいえ、皆に知って欲しいです。チームがもっと勝てるようになりますから。』と私は伝えた。
ボールがゆっくりと曲がって行くのが見える。
打席で落ち着いている新しい感覚は今でもはっきり覚えている。
集中し過ぎもダメ、リラックスし過ぎもダメ。
そんな事を一気に解決させてくれた教えだった。
野球には厳しく、命を賭けてやれという事を教わった。
本質を見るその指導の中でも、優しさや愛情を感じる指導だった。
人生に役立つことも教えてくれた。
本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。
葬儀会場に飾られた沢山の醍醐さんの写真と共にマリーンズでの指導者時代の82番のユニフォームを見ながら一気にその当時の思い出が甦った。
今も私の中にその意思は生きている。
ご冥福をお祈り致します
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素敵な御言葉有難うございます!!
来年も御活躍期待しております☆ミ
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大村さん、こんにちは。
醍醐さんといえば2軍監督だった頃、(まだCLMのキャップだった頃)ファンクラブの女性向けのイベントで、お話しをしてくださったことを思い出します。
穏やかな、優しいさにじむ口調が印象に残りました。
そうか、アメリカ留学から25年になるのですね。大村さんが帰国されてから1軍でプレイをされて、米国留学の成果が出たなぁ、と嬉しかったものです。
醍醐さんのアドバイスもあったのですね。
お別れは悲しいですが、大村さんの活躍は天国でもきっとご覧になるでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。