母
今日の昼、北海道の妹から母危篤の連絡が来て、その10分後には息を引き取ったと。
闘病生活長かったから、ゆっくり休んでほしい。
お母さん、安らかに。
弟と妹が葬儀の段取りをしてくれている、ありがとう。
母は私が中一の頃出て行った。それからずっと会っていなかった。23か24歳のときに一度。
小中と母に対して良い思い出は無い。ずっと恨んでいた。今思うと好きだからこそ許せなかったのだと思う。
今から12年前、妻が娘を産んでから母への思いも変わってきた。母もこうして私を産んだのかと思うと…
それから母とは少しづつ話すようになった。母は妻と娘によく電話してきては喋っていた。妻は優しいからいつも母の相手をしてくれた。娘も北海道のおばあちゃんと言って慕っていた。私は相も変わらずぶっきらぼうだ。しかし妻と娘と楽しく話している様子を見ていると私も嬉しくなっていた。4年前から故郷の伊達市でイベントに呼ばれるようになり、その都度母と食事をしたり泊まったりして、蟠り(わだかまり)もなく話せるようになった。去年は母と家族で温泉へ行ったりもした。妻と娘と会うととても幸せそうな顔をしていた。
私が一人で一泊したとき、母がビニール袋に乱雑に保管している写真を見つけたので見せてもらった。母が父と出会った頃から私が小学6年生の頃までの写真、そして家を出てからの数十年の写真。それを見たときに母が頑張ってきたこと、そして母には母の人生があり生きてきたこと、私は産んでくれて本当に感謝しました。母には母の人生、私を産んでくれただけで感謝だと心から思えた。
そうだ、母が20万のテレビを買ったとき、私はなんで相談しないんだと怒ったことがあった、その時母は僕をテレビで見るときは大きな姿で見たいからと…それを聞くと何も言えなくなりテレビはなるべく大きめの安いのに変えてもらった。ただ家電屋さんにも悪いので録画して私を見れるようにブルーレイディスクを買った。私の妹は直接母の面倒を見てるので大変だったと思うけど、微笑ましいエピソードかな。もっとテレビでの私の姿見せてあげたかったな。
去年の11月、母が倒れ入院、すぐに駆け付けたがなんとか無事だった。しかし退院の見込みはなく動けるようになったら特養へ移る予定だった。しかし様態は変わらずそのままICUからHCUへ。年明け2月に帰郷し母の病院へ、痴呆が進み私と理解するまで十分くらい時間を要した。私はそれが生前最後になってしまった。その後はコロナで家族も1名しか面会できなくなり妹が色々としてくれていた。それでも一か月に一回ほどの面会です。面会後は私に様子を伝えてくれて、意識もしっかりして体力も回復してると聞いていたからてっきりと元気になると思い、コロナがあけて来年は母に会えると思っていた…
会いたかった。
今日、病院から妹と弟へ電話があり、二人は急いで駆け付けなんとか見送ることができた。
子供が送ってくれて母は嬉しかったと思う。叶うなら子供三人揃って送ってあげたかった。
涙が止まらない。
明日、会いに行きます。
待っててね。
産んでくれてありがとう。
感謝してます。
母へ。
2020/11/27
Yoshihiro
2019/8/17 母と昭和新山へ
文章が不安だけど、今の私の心を書き留めました。
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