プチ☆スピ Vol.3
今日は全国的に初夏の気温だったようですね。京都では27度くらいあったそうで、神戸でも散歩の帰りにバスに乗ろうと思うほど暑さを感じました。帰りがけの六甲山では、夏の入道雲のような雲が見えていました。
無理して歩かずに気持ちよく帰ってきましたので、午後からはしっかり原稿を書くことができました。終盤に入ってきましたので、エンジンをかけていきたいと思っています。
【言葉の持つ雑音を超える】〜『四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話より』より
クリシュナムルティの言葉はいろいろな意味を含んでいますので難しいですが、それだけに私たちの意識の奥深くに響いてきます。このプチ☆スピのカテゴリーを始めるにあたってクリシュナムルティを選んだのは、こうして文章にすることで私自身の理解を深めるためですよ〜
この言葉の雑音という意味は、「自我」の思考や偏見、先入観や個人の観点のことを指していると思います。私たちが言葉を話す時、あるいは誰かの言葉を聴くときも、こうした雑音を含めてやり取りしているのですね。
そうした雑音を超えることがなければ、そこにある美と大いなる理解が得られないとクリシュナムルティは言っています。言葉や文字は表現したとたんに、二元化します。これは文字が持つ宿命なのですよね。
言葉にしたり文字に書いた瞬間、それが持つ概念により、いい悪い、好き嫌いというような判断を生じさせます。それはやり取りする個人によって微妙な違いを持ちますが、無意識に二元化されていることは同じです。
クリシュナムルティは、言葉は意思疎通の単なる外面的手段にすぎず、言葉の持つ雑音を超えて意志疎通するためには、敏活である受動性が必要であると言っています。この敏活である受動性とは……。
「内なる静寂を保ち、何かを獲得するという重圧から解放されて、肩の力を抜いた注意」だと説明しています。難しい表現ですが、瞑想をされている方なら理解できる言葉だと思います。
私たちは常に何かになろうとしています。今の自分を「観る」ことなく、幸せになるためには何かを得なければと必死になるのです。夢を求めてモチベーションを高めるのは大切です。しかし、幸せであることは過去や未来にあるのではなく、「今、ここ」でしかありません。
お金持ちにならなければ、事業で成功しなければ、悟りを得なければ、自分に幸せがやってこないと考えている限り、いつまでも幸せを追い続ける人生になります。「今、ここ」に全てが存在しています。そのためにも、言葉の雑音を超えてありのままを「観る」必要があるのかもしれませんね〜
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