冤罪について考える日々
今日の散歩の帰り道は、迷わずバスで帰ってきました。この暑さでプチ登山は辛いですからね。いつも神戸大学の学生で賑わうバスですが、空いていたので気楽に帰ることができました。夏休みのせいかな?
この鳩たちは散歩中に公園で見つけました。この写真ではあまりわかりませんが、めちゃめちゃラブラヴ〜〜〜
互いを見つめ合ったり、羽づくろいを手伝ったり。公園を通り過ぎるまで二人を見ていましたが、完璧に自分たちの世界に入っていましたよ〜!
さて現在は次の物語について勉強中ですが、どうしても避けることのできないテーマに冤罪があります。その冤罪の心理について、加害者と被害者の両面から考えています。個々のケースについて事情が違うので、一般化して考えることは難しいかもしれません。
それでもそこから何か伝えるべきものを引き出せたらと思っています。一口に冤罪と言っても、いろいろなケースが考えられます。目撃者の勘違いであったり、初動捜査のミス、証拠の不適切な取り扱い、あるいは強引な決めつけによる取り調べ等、最初から誰かを落とし入れようとする悪意が存在しないケースが多いと思います。
それでも死刑が存在する日本では、もしかしたら過去に冤罪のまま処刑された人がいるかもしれません。考えたら恐ろしいことですね。でも私が考えている冤罪はそのような予期せぬものではなく、最初から仕組まれていた冤罪です。
日本の歴史を振り返っても、実はこうした冤罪は数多く記録に残されています。古代史でも、皇位を争って競争相手を冤罪によって葬るケースが何度も実行されています。ライバルを蹴落とす手段として使われているのですよね。
日本に数多く存在する神社のうち、そうした冤罪による被害者の鎮魂を込めて創建された神社があります。確信犯として相手を追いやっているわけですから、後ろめたさがそうさせるのでしょう。怨霊信仰のある日本社会では、そうした霊を静めないと自然災害等が起きると考えられていました。
そうした確信的な冤罪の場合、実行者が持つその強い動機に興味があります。そこまでして誰かを罪に落とす原動力は何なのか?
そして、その冤罪を受けた人間の心の苦悩にも興味があります。身に覚えのないの罪で死を迎えるときの心理状態とは?
これらの二つを中心にすえた。ファンタジーができないかと模索している毎日で〜〜〜す
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