未知が既知に変わる喜び
久しぶりの雨。今日の昼過ぎまでは本降りの雨との予報だったので、朝の掃除をすませると、さっさといつもの買い物に出かけた。
家を出たときはまだ暖かさが残っていたけれど、お昼過ぎに戻ってくるころには冷たい雨に変わっていた。冬型の気候が戻ってくるらしいので、まだまだ厚手のコートはしまえないみたい。
といっても最高気温が10度を超えるのだから、真冬に比べたら大したことない。人間というのは相対性に大きく左右されるので、一度暖かくなったあとに気温が少し下がると、めちゃ寒くなったように感じるだけだろうね。
夕方になってその雨もあがり、雲のすきまから青空が見えてきた。時々は西日が街を照らしている。明日はいい天気になるのかな?
さて月末までは仕事中心モードなので、ブログの文字数は少なめで、場合によってはお休みする日があるかも。と言いつつ、書き出すと長くなるのだけれどねw
仕事に集中するとき、ボクの場合は音楽をガンガン聴くほうが効果的だということを、先日のブログで書いた。必然的に音楽を聴く時間が増えることによって、新しいアーティストにその時間を割いている。
最初は馴染みのない声だったりアレンジなので、明らかに未知だと感じる。何度か聴き込んで「知っている」という感覚は育ってくるけれど、まだその程度では未知の範囲から抜け出ていない。
それでも聴き続けていると、ある瞬間に未知が既知に変わったのを感じることがある。
これは言葉でうまく説明できないけれど、明らかにそういう瞬間がある。それを感じた直後、その曲はボクの心のライブラリーに記録されることになる。自分という存在に属する曲になる。そして同時に、自分がその曲の一部になったこともわかる。
それは自分と曲とのあいだにあった垣根が、ストンと一瞬で取り払われてしまう瞬間で、そこには言い知れない喜びがある。ワンネスと書けば大げさに聞こえるかもしれないけれど、それほどの強い一体感。
これは曲だけでなく、人間のあいだでも起きる。
たとえば恋人と初めて手を繋いだり握手をしたとき、めちゃ感動するけれど、そこにあるのは自分と他者という垣根。歩み寄ったのはたしかだけれど、まだ一体感はない。
でもあるとき、今までとちがう感覚を持つ瞬間がある。
それは恋人の手を握っていても、まるで自分の右手で左手を握っているように感じる瞬間。初めてのときのようなドキドキはないけれど、そこにあるのは他人ではないという一体感。結婚している人たちなら、あぁ家族になったんだね、と感じる瞬間だと思う。
だったら未知が既知になったらそれで終わりなのだろうか?
いや、ボクはそう思わない。音楽でもそこから新しい発見が始まる。細かいアレンジの機微や、ヴォーカルや演奏の深さに気づいて、新しい未知に出会う。またそれが既知に変わるまで続く。
人間関係でも同じだと思う。未知が既知になったといっても、そこから新しい未知が見えてくるのだろう。だから永遠に互いを知り合うことができるはず。ここで終わりなんてありえない。それは相手に対して、自分が固定観念を押し付けている証拠でしかない。
なぜ人間は未知から既知を求めるのか?
それは究極の未知から、究極の既知を見つけるためだと思う。
その究極の未知と既知とは?
自分自身だよね! 自分のなかにある未知を見つけ、それを既知に変えていく。それを繰り返すことで、本当の自分を知ることができる。自分のすべてが既知になったとき、ボクたちの人生の旅は終わるのかもしれないね。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。
コメント (0件)
現在、この記事へのトラックバックは受け付けていません。
コメントする