狂おしく後悔しながら死にたい
東京方面は雪の降っているところがあるらしい。神戸もこの時期にしてはかなり寒い。
去年の今ごろは桜の開花宣言がすでに出ていたから、満開を待つだけの状態だった。ところが今年はつぼみがようやく膨らみ始めたところ。
その一方で今日は雪崩による事故のニュースが続いている。自然現象とういうのは人間の意識が投影されたものだと思う。だから自分たちの心模様を知るために、もっと自然界で起きていることに意識を向けるべきかもしれないね。
と言いつつ、目の前のことに必死になって生きているのが人間。ボクも御多分にもれず、今日と明日はのんびり自然を観察している余裕はなく、ひたすら仕事をしていると思う。今夜も残業かな。
文章の推敲をしていると、答えの出ない深みにはまっていくような気がする。ゴールのわからないマラソンを走っているようなもので(マラソンを走ったことはないけれどw)、どこまでやればいいのか当惑してしまう。
最終的には自分でゴールを決めて、作業をストップさせるしかない。でも不思議なもので、創作作業をいうのはやればやるほど、新しいアイデアが湧いてくる。それは他の仕事でも同じじゃないかな?
自分が本当にやりたいことをやっていると、奥深く進めば進むほど、今まで見えなかった世界が明らかになってくる。するとその先に進もうとして、さらにやりたいことが増えてくる。その相乗効果は指数関数的に高まるような気がする。
だから本当にやりたいことをやっている人は、止まることがないと思う。これは実感としてわかる。
ボクは今日が最後の日だと思って生きるようにしている。ゆえに、今日やれることはやり切ろうと思って生きている。
でも誤解しないでほしい。それは今日が最後の日だと想像して、後悔なく生きるためじゃない。
あぁ、思い残すことはない、と思って死ぬような人生は送りたくない。狂おしく後悔しながら死にたい。真剣にそう願っている。
本当にやりたいことをやっているのなら、先ほども書いたように次から次にアイデアが湧いてくるはず。それは豊富な水脈を持つ湧き水のように、止めることなんてできない。
だから自分の死を覚悟したとき、本気でやりたいことをやって生きているのなら、後悔でいっぱいになるだろう。もっとこれをやりたかった、あれを経験したかった、と身悶えするはず。
もし何の後悔もなしに死を迎えているとしたら、ボクは何も本気で取り組んでいなかったのと同じだと思う。
昨日のブログで紹介したクリント・イーストウッドの演じた役が、そんな生き方をした人物だと思う。死を迎えたレッドは、後悔で悶え苦しんでいたと思う。なぜなら、本当にやりたいことをやっていたから。自分の限界を越えようとしていたから。
自分の死を感じた瞬間、素直に受け入れると思う。死ぬことに抵抗はしない。
だけど、「くそっ!」て言いながら死にたい。あれもしたかった、これもやりたかった、と思いながら死にたい。
今日が最後の日だとボクが思って生きているのは、そんな後悔を感じ続けたいから。だから日々、一歩でも前に進もうとしている。
やりたいことが見つからずに漫然と時間を過ごすより、やりたいことを抱えてどれから手をつけようとかと悩む生き方をしたい。ということで、今日も布団に入るまで精一杯生きようと思う。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。