人生に不安を感じた時に思うこと
今日は今年初めての外出。驚くなかれ。なんと我が家の玄関のドアが開いたのは、昨年の12月30日以来。
つまりほぼ4日間、ボクも妻も家から一歩も出ていないということ。帰省する実家はないし、季節に関わらずアウトドア系の趣味もない。とにかく家にいるのが大好きなので、食料さえどうにかなれば引きこもりになってしまうw
でもさすがに備蓄がなくなってきたので、買い出しに出かけないとマズイ。久しぶりに感じた外の空気は、かなり冷たかった。午前中は雪まじりの雨やあられがときおり降るという悪天候。それでもなんとかして2日分の食料を調達してきた。
まだ3が日なので、街は比較的ひっそりとしていた。あまりお正月らしい雰囲気は感じなかったなぁ。神戸の六甲は学生さんの街でもあるので、大学が始まらないとかなり人口密度が低い。来週になれば、またいつもの雰囲気を取り戻すのだろう。
さて新年を迎えて感じるのは、またひとつ年齢を重ねてしまったということ。別に歳を取ることを嫌がっているわけじゃない。でも半世紀以上生きていると、つい未来が見えてくる。この先、自分は何か残すことができるのだろうか、という不安に襲われることがある。
小説を書き始めた年齢が遅いことも、そうした不安の理由のひとつ。もっと早く始めていたら、と考えてウジウジすることもある。どれだけ自分の人生を振り返っても、やはり今の選択肢しかなかったことはわかっているんだけれどね……。
こんなふうに人生に不安を覚えたとき、ボクが思うことがある。
それは、『人間に自由意志なんてない』ということ。
このことについて語ったら、本が1冊書けるので割愛する。とにかく人間は自分の意思で選択をしているように思っているけれど、それは錯覚でしかないと考えている。だからどれだけ思い直しても、今の人生以外を経験することはなかった、ということ。
この感覚を体得するためには、どうしても必要な視点がある。それは自分の人生を『映画』のように眺めることができる客観性。映画というのはシナリオが決まっていて、何度観ても結末は変わらない。ああすればよかったのに、こうすればよかったのに、と思っても無駄なだけ。
自分の今までの人生もなるべくしてなったということ。そして未来を見たとき、ああなりたい、こうなりたいという欲望はある。そのとおりになるかどうかは別として、待ち受ける運命は決まっている。やはりなるようにしかならない。
自分の人生に不安を感じているのは、過去の選択を悔やみ、未来の選択に自信が持てないとき。自分で周囲の環境をコントロールしようと焦っている。そんな状態で何かをやっても、後悔と不安に圧倒されるだけ。
だからそんなときは、『人間に自由意志なんてない』とボクは思い出すようにしている。そう考えるだけで、すうっと不安が消える。どう転んでも、なるようにしからならないんだから。
でも大切なのは、その不安が消えたあとのこと。その後の選択によって、人生は変わる。
あれ? 人間に自由意志がないと言っているくせに、どうして選択によって人生が変わるんだよ? 矛盾してるやん、と思う人は多いだろうね。
でも矛盾はしていないよ。ボクが言っている選択は、人生をどう捉えるかということ。シナリオが決まっていても、映画を楽しむことはできる。登場人物に感情移入することで、架空の物語を自分が体験しているように感じることは可能。
人生もそれと同じ。傍観者でいるだけでは面白くない。どうせなら『自分』になりきって、その役柄を堪能するほうがいい。楽しいことがあるかもしれないし、辛いことがあるかもしれない。だけど物語はそういうものであって、人生というのは『自分』が主人公である物語なのだから。
どうせ決まっているんだから、頑張っても同じ。そう思って諦めの人生を過ごすこともできる。だけどそんな映画面白いか? ボクはあくびしか出ない。
そんな退屈な映画なんて体験したくない。冒険の世界に飛び込んで、その世界をめいっぱい体験したい。精一杯生きて、悔しく泣いたり、怒ったり、笑ったり、感動の涙を流したりしたい。どこか冷めた目で人生を眺めているより、アホになって楽しむほうがいいと思う。
この先、ボクがどんなストーリーを『自分』に用意しているかわからない。でもわからないからこそ楽しい。予定調和の物語は愚作の典型だからね。だからこそ精一杯生きたいと思っている。
そして最後の最後まで『自分』という物語を楽しみ、ちょっぴり苦笑しながら人生の結末を見届けたいと願っている。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。