純文学とエンタメの境界線
最近、朝の気持ちは大切だなぁとつくづく思う。人間の直感というのは不思議なもので、朝起きたときの感覚でその日の雰囲気を感じてしまうことがある。
何をやってもうまくいくような気がするときと、そうでないときがある。夜になってふり返ると、朝の印象どおりの1日だったことは多い。
だけどよく考えたら、それって気分だけのものだと思う。結局は自分がその日の出来事の流れを決めてしまって、それ以外の要素を感受する能力を放棄しているんだろうね。決めつけほど怖いものはない。
だからと言って、そう簡単に決めつけをやめるのは難しい。だったら最初からいい雰囲気を作っちゃえばええやん、と思うようになった。
朝起きて活動開始したら、いい兆候を見つけ出す。どんなことでもいいから、ラッキーと思うことを探す。そしてその雰囲気に浸るようにしている。そうすると不思議なもので、どんなことでもうまくいくような気がする。実際はうまくいっていないことでも、うまくいくための過程として見ることができる。
それと同じく、小説というものは、人間が生きるうえでの気分を助けてくれるものだと思う。だけどそれをどうとらえるかによって、その結果はちがうように感じた。そんなことを思わせてくれた小説を読んだ。
『土の中の子供』中村文則 著という小説。
最近すっかりハマってしまって、中村さんの追っかけをしている。これで3冊目で、中村さんはこの小説で芥川賞を受賞されている。芥川賞といえば純文学作品に対して与えられる賞で、まさにそれにふさわしい内容だった。
とにかく重い。決して楽しく読める小説じゃない。主人公は子供のころに両親に捨てられ、里親の元で育つ。ところがその里親はDV夫婦で、幼い彼をアパートの一室に閉じ込めて暴力の限りを尽くす。
最終的には土の中に生き埋めにされてしまう。だから『土の中の子供』というタイトルになっている。必死でそこから生還することで、里親は警察に逮捕され、主人公は施設に収容される。ところが大人になっても、その暴力を受けたトラウマが抜けない。
むしろ暴力を求めているようなところがある。幼いころに暴力を受けることが常態だったから、それなしに生きられないようになっている。タクシーの運転手をしているが、ラスト近くでタクシー強盗に殺されそうになることで、暴力に対する自分のトラウマと向きあう決意をするという物語。
もうひとつ『蜘蛛の声』という短編も収められている。こちらはホームレスが主人公。他人の目から隠れることで、かろうじて生きている男性が主人公。その心の闇は想像を絶する。とにかくひたすら重い。だけどその世界に惹きつけられて、最後までページを繰ってしまう。
ラストにあとがきが記されていて、この二つの小説は、中村さん自身の心的経験に基づいて書かれたものらしい。こうして小説を書き、読むことで、彼は救われてきたとのこと。もし小説との出会いがなければ、自分の人生はどうなっていたのかわからない、と述べられている。
たしか同じようなことを、『火花』を書かれた芥川賞作家の又吉直樹さんも言われていた。小説によって救われた人は、もしかしたら純文学の世界に足を踏み入れるのかもしれない。
ボクは少しちがう。ここまでの暴力は経験していないけれど、ある種のトラウマは抱えていた。両親とのあいだにも複雑な関係があった。だけどボクにとって小説は救いではなく、現実逃避させてもらえるものだった。
ドキドキする冒険を楽しんだり、推理小説で犯人を探すことで、現実世界から逃避していたように思う。そういう意味では小説に救われているんだけれど、その世界を楽しむことで心を正常に保ってきた。だから同じようなものを書きたいと思っているのだろう。
小説の世界に自分の人生を投影することで救いを得る。こういう人は純文学の世界に行くのかな?
そしてボクのようにファンタジーや冒険世界で現実逃避するような人間は、エンタメ小説の世界へ向かうのかもしれない。勝手な判断だけれど、純文学とエンタメの境界線は、こういう部分にあるのかもしれないなぁ。
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