かぐや姫の『自死』という選択
朝のブログでも書いたけれど、昨日の夕方の雷でWi-Fiルーターのデータが飛んでしまった。最終的な原因確定まで時間がかかったので、ネットが復活したのは今日の午前9時半ごろ。いやぁ、長かったぁ。
ドコモの4Gに関しては妻と分け合っているので、ある程度の量を使えるようにしている。だから1週間くらいは今までの調子で使っても速度制限を受けるようなことはない。パソコンもスマホを使ってデザリングすれば、とりあえずネットは問題ない。
だけどApple Musicだけは Wi-Fi使用が必要条件なので、復帰してくれて助かった。やっぱ定額のWi-Fiってありがたいよね。普段から気にしないでアクセスする癖がついているので、昨日から今朝にかけての不自由感はめちゃ不快だった。
さて、ようやく気になっていた映画を観ることができた。
『かぐや姫の物語』という2013年のアニメ映画。先日亡くなった高畑勲さんの遺作となった作品。
基本的に『竹取物語』をアニメ化してあるんだけれど、高畑さん独自の解釈がされていて面白かった。だけど個人的に不満はところはいくつかある。映画としてのボクの評価は、あまり高くない。
なぜならこの映画は『死』が支配しているから。
かぐや姫にとって本当の幸せは、お金持ちになることでも、高貴な公家に嫁ぐことでもない。幼いころに出会った『捨丸にいちゃん』のような人と、苦労しながら自然のなかで自由に笑顔で暮らすことだった。
だけど必死になってかぐや姫を高貴な娘にしようとする義父は、そのことをわかってくれない。次から次に公家を紹介したり、最終的には天皇まで登場する。帝の女御になれば、冠位を授けられると狂喜している。
強制してでも自分のものにしようとする帝に抵抗するためには、出身地の月に帰るしかない。それは『死』を意味している。ボクにはそう感じたし、きっと高畑監督もそう考えていたんだと思う。
ボクがこの映画をあまり好きじゃないのは、切なすぎるから。月に帰ることを決意したかぐや姫が、高価な屋敷を脱走して生まれ育った山に行く。そこで捨丸と再会する。「あなたとなら幸せに暮らせたかもしれない」と言ったかぐや姫を抱きしめた捨丸が、一緒に逃げようと彼女を説得する。
だけど月に戻ることを自分から告げてしまったので、「もう見つかってしまった」とかぐや姫は嘆く。それは『死』に見つかってしまったということだよね。子供のころから知っている童話だけれど、この映画の解釈と展開は好きじゃない。あくまでも好みの問題だけれど。
どうせなら二人に逃げて欲しかったなぁ。もちろん『月』はどこまでも追いかけてくるだろう。いつかは誰もが死ぬんだから。だけど自ら「月』に戻ることはない。一緒に戦ってくれる人がいるのなら、少しのあいだでも『月』から隠れて生きることはできたはず。
見終わったあとに、切なさと悲しさしか残らない作品だった。そういえばボクは高畑作品のなかで、『火垂るの墓』も同じ理由で嫌い。一度観ただけで、二度とごめんだと思った。『おもひでぽろぽろ』は大好きで、数えきれないほど観ているんだけれどね。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。