霊の憑依について考えてみた
昨日に比べて蒸し暑いけれど、今日は少しだけ涼しさの余韻が残っている。だけどまだ8月の上旬なので、しばらく暑い日が続くだろう。
そこで少しは涼しくなる話題について考えみることにした。今書いている新作の小説では、霊の憑依が物語の主軸になっている。
その『憑依』という現象は、どんな状態を指すのだろう? 小説のなかで述べているけれど、物語が中盤まできているので、整理を兼ねてちょっと考えてみた。
ちなみにあの世も幽霊も信じない人は、映画や小説の世界だと思えばイメージがわくだろう。そんな感覚で読んでもらえばいい。
『霊が人間に乗り移る』ということを耳にしたのは、小学生の低学年だったと思う。子供のころに不思議な体験をしていたこともあって、本能的に幽霊の存在を信じていた。とにかく怖がりで、見なければいいのに古い『四谷怪談』の映画なんかを観たら、怖くてトイレに一人で行けなかった。
ボクの最大の恐怖は、『取り憑かれる』ということ。この言葉の意味するところは、子供ながらわかっている。本人の意思に関係なく他人の霊が肉体に侵入して、自分を自由に操ってしまうというもの。恐怖の源となるのは『本人の意思に関係なく』という部分。
だけど本当にそうだろうか? 大人になったボクは、そのことに疑問を持っている。
憑依現象を否定しているわけじゃない。だけど少なくとも、『本人の意思に関係なく』という部分に関しては否定的な見方をしている。
幽霊というものは、『分離した自我』だとボクは解釈している。想像して欲しい。人間の実態はピュアな『真我』という存在で、『私』という感覚から遠く離れ、ワンネス意識で存在しているものだと思う。
だけどこの物質世界においては、他人とはちがう『私』を捏造する必要がある。それが『自我』というもので、長い年月をかけて自分だと信じる幻想や幻影を、真実の自分だと思い込んで生きていくことになる。その自我によって誰かを愛したり憎んだり、嫉妬したり手を差し伸べたりする。
肉体が死ぬと『真我』は大いなる源に帰る。本来は『自我』も貴重なひとつの経験として、『真我』に取り込まれていくのだろう。だけど『自我』は『私』が消滅することを極端に恐れる。それゆえ死に際して異常なまでに抵抗をした『自我』は、分離して幽霊になる。ボクはそう解釈している。
その『自我』の正体は単なる思い込みで、人間の思考だと考えていい。そしてそれを究極的に突き詰めていくと、ある種のエネルギーであると言える。念波という言葉が存在するように、幽霊はある種の波動、あるは電磁波だと考えていい。つまり物理的な法則の影響を受ける。
ゆえに、生きている人間の『自我』に、死んだ人間の『自我』を憑依させるのには、共鳴するものが必要となる。つまり受け入れ側に同じ性質が一部でも存在しなければ、憑依することは不可能になる。
要するに、憑依されて人格を乗っ取られるとしたら、その人がもともと共鳴するものを持っていたということになる。ボクが子供のころからもっとも恐れいていた『本人の意思に関係なく』という部分は、気にする必要はないということだろう。
たまたま共鳴したものが潜在意識に存在していた場合、本人の意思に関係なく取り憑かれたと感じるのだと思う。人混みを歩いていると、さまよっている霊を連れて帰ることは良くある。
我が家の場合は猫のミューナがいるので、彼がすぐに教えてくれる。そして猫に怒られたら、スゴスゴと霊は消えてしまう。たまたまついてきても、共鳴するものがなければ憑依することができないからだろう。だから取り憑かれることを、それほど怖がる必要はない。不必要な心霊スポットの肝試しなどをやらなけれいいだけのこと。
そして悪霊と共鳴する意識を、持たないようにすればいい。まぁ、これに関してはいろいろとあるだろうけれどねw
だけどひとつだけ忠告がある。すでにあなたは憑依されている。そのことを忘れないほうがいい。この世に存在している、すべての人が憑依されている。
それは『私』だと思っている、あなたの『自我』。ボクたちは死んだ霊には憑依されていないけれど、『自我』という幻影には完璧に取り憑かれているからね!
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