『あみだくじ理論』の怖さ
人間に運命は存在するのか?
このテーマについて数多くの著作が残され、小説や映画が制作されている。自らの努力で人生を生き抜いてきた人は、運命など存在せず、人生は自分の力で切り開くものだと語るだろう。
一方悲惨な環境で生まれ育った人や、理不尽なイジメや虐待を受けてきた人は、避けられない自分の運命を呪うだろう。努力や自由意志だけではどうしようもないことがあるのは事実。
簡単に答えが出るテーマではないから、人間の心をとらえているのだと思う。ボクもこのことについては、常に考え続けている。人間に自由意志はないと直感しているが、それはあくまでも根元的な部分においてのこと。
実際にこの世界で生きている人間にとって、人生における選択は大きな意味を持つ。だからそれが自由意志だと問われたら、そうだと答えるだろう。
先日のこと。糸井重里さんが『ほぼ日』の『今日のダーリン』という記事で、興味深いことを書かれていた。横尾忠則さんが言われたもので、『あみだくじ理論』というものがあるらしい。
それがどういう経過で話され、具体的にどういうことなのかまで書かれていない。糸井さん自身も、まだ明確に理解されていないと記されていた。基本的な考えとしては、あみだくじが人生を象徴しているということだと想像している。
あみだくじの法則はシンプル。曲がり角に来たらその方向に曲がる、ということだけ。そのあみだくじが人生だとすると、紆余曲折しながら様々な体験をしているように見える。だけどあみだくじには、絶対的な法則がある。
それは、『最初に選んだ段階でゴールは決まっている』ということ。
これはとても意味深で、考えようによっては刺激的だと思う。日々の生活のなかで、ボクたちは様々な経験をする。楽しいことやうれしいことだけじゃなく、辛いことや悲しいこともある。怒りや憎しみを抱くこともあるだろう。だけどその『あみだくじ』のゴールは、くじを引いた段階で決まっている。
人間の一生が壮大な『あみだくじ』だと想定した場合、その人生の運命は決まっていて自由意志はないことになる。自分の意思で曲がり角を曲がっているように思うけれど、それしか選択できない。そして行き着く先も決まっている。
だとすると、その『あみだくじ』を引いた瞬間はいつになるのか? やっぱり生まれる前、ということなの?
シンプルな理論だけに興味深い。だけど同時に恐ろしい。ドイツのナチスに虐殺された人は、そのくじを自分で引いたということになってしまう。イジメを受けて自殺した人も、その人の選択ゆえだということになってしまう。
だからボクが考えるような『あみだくじ理論』は、人生に当てはめるべきものではない。物事の現象をとらえるという意味ではユニークな発想だけれど、その理論に人生を重ね合わせるのは危険だと思う。
つまり突き詰めていくと、運命と自由意志の関係は答えの出ない永遠のテーマだということだろう。きっと人類が存在している限り、両者の論争が続いていくんだと思う。
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