全国女子駅伝を見る変な理由
神戸は快晴。そしてボクの生まれ育った京都も、絶好の駅伝日和になった。
今日は都道府県対抗全国女子駅伝が行われた。今年で37回目ということで、ボクは20歳くらいのころから見ていることになる。
ほぼ毎年欠かさず見ている大会で、いくつか行われる駅伝のなかでもっとも楽しみにしている。学校や会社単位の勝負ではなく、都道府県対抗なのがいい。中学生から社会人までが一つのチームになっているの好きなんだよね。
去年2位だった京都はトップでアンカーにタスキが渡ったけれど、残念ながら今年も2位。もうひとつ応援している兵庫は連覇できずに4位に終わった。それでもスタートからゴールまで、ずっとテレビの前に張り付いていた。
なぜこれほどまでにこの駅伝が好きなのか? 女性の太ももを見るためじゃないからねwww
その理由は大きく分けて2つある。ただし、ちょっと変わった理由。
ひとつは学生時代の影響が強く残っているため。京都を離れて石川県の金沢近郊で学生時代を過ごした。ちょうどその時期にこの大会が始まり、寮の白黒テレビでなんとなく見ていた。
すると馴染みのある西京極の陸上競技場から宝ヶ池までの都大路を走っている選手たちを見て、ちょっとウルウルしてしまった。レースに感動したんじゃなくて、その背景に心を揺さぶられた。一種のホームシックだったんだろうね。
なつかしい京都の町並みを見ていると、目が離せなくなってしまった。そのときの感動が今でも残っていて、社会人になって京都で働くようになっても見るようになった。そして神戸に越して11年目になるけれど、やはり同じようななつかしい気持ちで京都の景色を見ている。
もうひとつは、この駅伝に輪廻転生を感じるから。ねぇ、かなり変でしょう?
全部で9区ある駅伝のコースの一つ一つが、ある人物の人生にように思えてしまう。たすきを受けたときが出生で、たすきを渡すときが死を迎えたときのように感じる。そしてその人の魂は、次のランナーに引き継がれる。
まさしくそのたすきリレーが、転生のように思えるんだよね。9区を通じてたった一つの魂が、姿形を変えて走っているように見えてしまう。ある人生では思うようにいかなかったけれど、次の人生では大勢をごぼう抜きしたりする。
駅伝そのものが自分の過去生と未来生のつながりのように感じて、なんとも言えない気持ちでレースを眺めている。そして今のボクの人生はどのあたりを走っているのかと想像してします。どれくらいの順位で今の人生のたすきを受け取り、どれくらいの順位で未来生にたすきを渡すのだろう?
つい、そんなことを考えてしまうんだよね。だからどの選手も応援したくなるし、各都道府県のチーム全体が一つの魂にように感じてしまう。そう思ってレースを見ていると、人生の機微をいろいろと感じることができる。
というわけで毎年この時期になると、この駅伝を楽しみにしてしまう。きっと来年も、同じような気持ちで見るんだろうなぁ。
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