『足りない』を埋める人生
今日のブログは、ボクのひとり言。
ずっとモヤモヤして言語化できないことがあって、それを整理するつもりで書いている。だから中途半端で終わるかもw
満ち足りた人生、なんて存在するんだろうか? もしそんなことを思う瞬間があったとしても、それが死ぬまで続くことはあり得ない。もし死の瞬間にそう感じることができたら、それはラッキーだったと言うしかないよね。
人生って、『足りない』ことの積み重ねのような気がする。時間が足りない、お金が足りない、知恵が足りない、容姿が足りない、運が足りない、チャンスが足りない、努力が足りない、やる気が足りない、愛が足りない。とにかく数えあげたら、明日の朝まで書き続けられるように思う。
ボクたちは抱えきれない欠乏感を抱えて、右往左往しながら人生を生きている。『欠乏』に意識を向けるとそれが現実化するという人がいるけれど、満ち足りていないと感じるのに、無理やり思い込んでもダメだと思う。『足りない』は現実に存在する。そのことを素直に認めたほうがいい。
『足りない』のほとんどは過去に起因するもの。言っておくけれど、これは後悔とは少しちがう。過ぎたことを思い悩んでも仕方ない。過去に対する気持ちを変えることはできても、事実そのものを変えることは絶対にできない。
妻と最近に話したことがある。『過去の自分がどうであれ、そのときにできる精一杯を生きてきた』ということ。それこそが真実だと思う。未来の自分が見れば批判はできても、その当時の自分にとっては最良だと思って行動してきている。できないものはできないし、やってしまったことはどうしようもない。
くり返すけれど、『足りない』というのは後悔じゃない。ただ純粋に自分に何かが『足りない』と感じる想いのこと。
たとえば飼い猫について考えてみよう。子猫を育ててその子の寿命まで見送ったとしよう。経験がある人ならわかると思うけれど、どれだけ愛して可愛がっても気持ちは残る。もっとこうしてやれたんじゃないか、もっと長生きさせてやれたんじゃないか、もっと愛せたんじゃないか。本当にキリがない。
ボクは過去に暮らした二匹の猫を思い出すと、いまだにそんな想いにとらわれることがある。そこにあるのは後悔じゃなくて、『足りない』という想い。もっと『満たす』ことができたような気がしてならない。
先ほど死の瞬間のことについて書いた。ボクはよく眠る前に今日が最後だと想像してみることがある。するとわき上がってくるのはその『足りない』という感覚。積もり積もった『足りない』が、胸を激しくかきむしって眠れなくなることがある。
ボクのイメージを書いてみよう。理想とするボクの姿を描いたジクソーパズルがあるとしよう。見事完成したら寿命を迎えるというイメージ。ところがそのパズルを見ていると、悲惨なほどパズルのピースが欠けている。完成にはほど遠い。
困ったことにそのパズルのピースは『いま』にしか存在しない。過去の部分を埋めようと思っても、その当時の時制にしか存在しない。だから埋めようと思えば、まったくちがう『いま』の素材で埋めるしかない。
先ほどの例で言えば、いま一緒に暮らしているミューナを全力で愛することで、『足りない』を埋め、新しい『足りない』を作らないようにパズルのピースを埋めていくしかない。過去を変えることはできないんだから。
ボクがこれから死ぬまでの生きる人生は、『足りない』を埋めていく作業なんだと思う。もちろん使用するのは『いま』というピースしかない。日々の暮らしのなかで接触するすべての人に対して、これ以上の『足りない』を作らないようにしないといけない。
そして過去の「足りない』を埋める必要がある。ボクが小説を書いているのは、物語を作ることで別の人生を生き、『いま』というピースを変形させて『足りない』を埋めているんだと思う。
そのピースとは『光』じゃないだろうか?
ホラーで幽霊を書いていても、ミステリーで殺人を書いていても、そこに『光』というピースを埋めていくべきだと感じている。
なぜなら欠けていると思っていたジクソーパズルのピースは、心の闇が投げかけた『影』のように思えるから、だから光をあてることで、本当はずっとジクソーパズルが完成していたことをようやく知るような気がする。
う〜ん、やっぱりまとまっていないなぁ。心のモヤモヤを言語化するのは難しいよなぁ。
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