SOLA TODAY Vol.898
少し乱暴な言い方かもしれないけれど、神戸は震災から復興したと言っていいと思う。ボクが神戸に移住したのは10年前で、震災当時は京都で暮らしていたから復興の様子を逐一見ていたわけじゃない。建物や街の風景に関して、元の状態に戻されたものもあるだろうし、失われてしまったものもあるだろう。
それでも神戸に10年暮らした印象として、できるかぎり既存のものが再建されたうように感じている。何が言いたいかというと神社仏閣のこと。
事細かに調べたわけじゃないけれど、古い神社やお寺に関して、苦労はあっただろうけれどある程度が再建されていると思っている。
ところが東北の震災は、その点に関してちょっと事情がちがうみたい。
東北も震災からの復興が進んでいるけれど、新しい街には神社仏閣が極端に少なくなっているらしい。神戸とちがうのは、津波被害のせいかもしれない。建物の倒壊や火災と比べて、津波はすべてを飲みこんで流し尽くしてしまう。だから元の場所に再建するのが難しいのかもしれない。
この記事に書かれている神社やお寺がない理由として、まずは再建に多額の費用がかかるということ。もう一つは政教分離の観点から、国の税金を宗教施設に投入できないことが理由らしい。
たしかにそうかもしれない。この記事の論点にしたがえば、神社や寺が放置されている理由に説得力はある。
だけど本当にそれだけだろうか? ボクはそんな疑問を持ってしまった。
復興にあたっては優先順位がある。住民の生活を少しでも早く元の状態に戻すことが最優先される。だからインフラや住宅整備、さらに雇用の確保等が優先されるはず。食料の供給等を含めた商業施設も大切になる。
そんなせっぱ詰まった状態で、神社やお寺の再建があと回しになるのは仕方ないように思うんだけれどなぁ。これは宗教関係の人が聞いたら、怒り出す意見かもしれない。宗教というものが人間の生活に根づいてきたし、無視できないものであることはわかる。
だけど現代の日本において、宗教は本来の義務や責任を果たしてきただろうか? 震災の復興にあたって、自分たちの優先順位を高めるだけの付加価値をこれまで提供してきただろうか?
言い方は悪いけれど、人間の生活にとって宗教の必要性を下げているのは、冠婚葬祭業に成り果ててしまった多くの宗教家に責任があるんじゃないだろうか? もちろん真摯に宗教家としての道を進んでいる人がいるのはわかっている。だけどその人たちが多数派でないのは、悲しいけれど事実だろう。
再建に費用がかかるとか、政教分離というのは、事実だとしても本質から目をそらしているだけのように思えてしまう。京都の話だけれど、神戸の震災のときに被害を受けた地域があった。
ボクが事実として知っている話として、地震で壊れたお寺を改修するために、自分の壊れた家を直せないような年金暮らしのお年寄りから強制的に寄付を集めていた。ある意味恐喝のようなもの。本来なら私財をはたいてでも、そんな檀家のために労を尽くすのが本当の宗教家だと思う。
宗教家側の理屈だけを押しつけられたような気がする。とてもモヤモヤした記事だった。
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