自由であるゆえの不自由
世の中には決まりごとが存在する。その最たるものが憲法だろう。身近なものでは自治体による条例もある。決まりごとがあるのは、好き放題にさせると人間はカオス状態になってしまうから。
小説を例にするとわかりやすい。小説にルールなんてない。極端な話し面白ければいい。意味不明の記号が並んでいるだけならダメだろうけれど、言葉として解釈できるならどんな形式でもいいはず。
ところがそうはいかない。小説を書いて新人賞に投稿しようと思えば、うんざりするほどの決まりごとが待っている。まずは文字数の制限。まぁ、これは仕方ないだろう。読了するのに数週間を要するような作品は投稿対象にできないものね。
だけど文字数以外にも細かい決まりごとが課せられる。投稿先によって段組がちがってくる。基本的にA4サイズ横向きで縦書きになるけれど、1ページあたりに指定される行数と1行あたりの文字数はバラバラ。この調整になれないうちはめちゃ苦労する。
あらすじにも文字数の指定があるし、それ以外にも個人情報についていろいろ求められる。それらの決まりごとに合致していないと、その段階で審査からオミットされてしまう。小説は自由なはずなのに、ちっとも自由じゃない。そのことを痛感させられる。
だったら自由に書いたらどうなるのか? それまでの既成概念を無視したらどんな小説ができるのか?
まさにそのことを堂々とやり遂げた小説に出会った。
『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎 著という小説。1981年の群像新人長編小説賞の優秀賞に選ばれた作品。少し調べてみたけれど、当時の審査員が相当にもめたらしい。
この小説を推す人と、真っ向から反対する人が議論を闘わせた。だから本賞は見送られて、優秀賞という扱いになったらしい。その噂をネットで目にして、遅まきながら読んでみた。そしてそうなった理由がわかった。
とにかく自由すぎる。短い文章でこの小説の内容を書けと言われても、ボクは途中で断念すると思う。正直言って、この物語の世界で何が起きているのか理解できなかった。ちんぷんかんぷんとはこのこと。
ところが不思議なことに最後まで読んでしまう。途中でやめられない。そしてなぜだか切なくなって涙する。これって何だろうね? もう小説の概念というものが完全に吹き飛んでいる作品だった。
こんなことを書くと身も蓋もないんだけれど、これはある種の天才的な人にしか書けない文章だと思う。ボクには絶対に無理。たとえばこのタイトルにもある『ギャング』という概念にさえとらえどころがない。こいつら何者? というモヤモヤした気持ちでいっぱいになる。
同じように書いてみなさい、と言われたら困惑するだけ。あまりに度を超えた自由は、かえって不自由になってしまう。ある程度の決まりごとのなかだから、ボクのような凡人でも小説が書ける。だけどこの作品ほど自由だと、手も足も出なくなる。悔しいけれど、どうしようもない。
もし気になった人は、一度読んでみてほしい。冒頭からぶっ飛んでいるから。そして気がつくと最後のページを呆然とながめながら、目に涙をためて困惑していることになると思う。そうとしか言えない小説体験だった。
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