運命であっても努力する理由
昨晩、布団のなかであることを考えていた。
ボクは人間に自由意志はないと思っている。このことを説明しようとすると本が1冊書けてしまうので、その真偽についてここで議論する気はない。
運命、あるいは使命というようなものが人間にはあって、起きるべきことは必ず起きると考えている。だから家族や夫婦となるような人とは、何がどうなっても必ず出会う。ボクはそのことに対して、微塵の疑いも抱いていない。
こういうことを言うと、必ず返ってくる言葉がある。すべてが決まっているなら努力する必要はない。ただ生きていればいい、という言葉。
でもボクの意見はちがう。たとえ運命が決まっていたとしても、全力で人生を生きるべき。できる限りの努力を積み重ねるべきだと考えている。以前から何度かこのことを書いているが、どうすればうまく説明できるかを悩んでいた。
それで昨晩、ふいにあるイメージを受け取った。ということでそのイメージをちょっと書いてみよう。
名付けて『手回し映写機理論』というもの。
生まれてから死ぬまでのあいだ、あなたひとりだけが入れる映画館があると想像してほしい。現代風に言えば、360度のスクリーンで現実と変わらないVRの映像だと思ってもらっていい。ただしそこで上映する映画は、手回しの映写機を使わなればいけない。もちろん、それを回すのはあなた。
その映画のフィルムはあなたの人生。すでに現像されているから、変更のしようがない。つまり起きるべきことは必ず起きる。
ただしその映画館には条件がある。使用できる時間が制限されている。それは1年かもしれないし、100年かもしれない。映画館に入る前は使用時間の説明を受けているけれど、一歩でもなかに入ると忘れてしまう。いつか終わる、ということしかわからない。
それでグルグルと映写機を手回しする。映画なので幸せや楽しいシーンばかりじゃない。悲しいことや辛い場面もある。それゆえ、唯一の自由意志が与えられている。
それは、映写機を回そうと休もうと自由だということ。
悲しい場面に落ち込んで、それ以上先を見たくないかもしれない。だったらそこで映写機の手を止めることはできる。それで終了時間までそこでボンヤリしていればいい。時間になれば係員が来て退場するように言われる。
だけど自由意志だから、先に進むのも自由。どんな場面に遭遇しようとも、映写機を回す手を止める必要がない。使用時間内であれば、映画フィルムが終わることは絶対にない。好きなだけ映画の続きを楽しむことができる。
手を止めていたらできなかったような体験や、感動がその先に待っているかもしれない。もちろん悲劇の可能性もある。だけど所詮は映画。本当の自分は客席にすわってリアルな映像を体験しているだけ。だったら力の続く限り、映写機のハンドルを回し続けたい。ボクはそう思う。
映画の内容は決まっているとしても、手を止めたらそこで終わり。それ以上の体験はできない。ただ漫然と終了の時間を待っているだけになる。
だけどいつ終了するかわからないからこそ、少しでも人生という映画を楽しみたい。だからボクは全力で映写機を回している。たとえ運命であっても、努力が必要だと思うのはそういうこと。
伝わっているかなぁ〜〜www
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