学校で教えてもらえないこと
昨日の夕方のブログで、ヘッセの『車輪の下』という小説の感想を書いた。そのあとも主人公のハンスのことを、心のどこかで考えていた。
もし彼が勉強することに疑問を持たなかったら、優等生のまま卒業して名のある牧師になっただろう。だけど彼は友情に関わる責務を背負いこんだことで、人生の袋小路に迷い込んでしまった。
なぜそんなことになってしまったんだろう、と考えていたとき、ある記事を読んで腑に落ちた。
大人の社会は「答えのない問題」だらけ。自力で立ち向かえる能力の大切さ/ひろゆき
ひろゆきさんが週刊誌のインタビューに答えた記事。教育について議論したもので、さすがひろゆきさんだなぁ、と感心した。言われてみたら当たり前に感じることなんだけれど、なかなか言語化できない内容だと思う。
大人の社会は「答えのない問題」だらけ。うん、うん、その通りだよね。
だけど学校で教える勉強は「答えのある問題」だけ。でないと採点できないし、他人との優劣を決められない。『車輪の下』のハンスも、答えがある問題を解くことだけを教えられてきた。そしてその技術を身につけてきた。
でも少年が神学校という新しい世界に自分の身をおいたとき、友情という「答えのない問題」に突き当たる。答えがないということは、自分なりの正解を見つけるしかない。だけど答えはたった一つだと教え込まれてきたから、いつまでも正解にたどり着くことができなかったんだろう。
教師に相談しても、その友人と距離を置いて勉強に専念するように言われる。「答えのある問題」だけを考えるように強制される。だからハンスは心を病んでしまったのだろう。
学校教育において、「答えのある問題」に取り組むことは大切。そのための勉強は必要だと思う。だけど少し視点を変えるだけで、「答えのない問題」にどう対応するかを教えることもできるはず。そして子供が成人して社会に出たとき、それこそがもっとも必要とされるものだと思う。
いまの学校教育に関して、ひろゆきさんは辛辣。
『本来、こういう「答えのわかってない問題の解き方」を既存の教育で教えてくれればいいんですが、既存の教育では、ほとんど教えてくれないのですね。というのも、学校の先生は社会に出たことがなく、大学を出たとたんに学校の先生になっている人が多いので、社会でまともな大人がやるような「答えのわかってない問題の解き方」を知らなかったりするのです。そりゃ、教えられませんよね……』
ちょっと言い過ぎな気もするけれど、当たらずとも遠からずかもしれない。ひろゆきさんのように自分で事業を起こした人は、常に「答えのない問題」に向き合わなければいけない。誰も行ったことのない道を進むというのは、そういうことだと思う。
子供の個性に合わせてできる教育なら、未知の問題に対してどのようにしてアプローチするかを経験させることは可能かもしれない。だけど一つの教室に閉じ込めて、足並みをそろえて勉強させる日本のやり方では無理だとしか思えない。
せめて人生は「答えのない問題」だらけだということだけでも、子供のうちに教えてあげるべきなのかもしれないね。
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