無知ゆえの幸せもあるかも
恥ずかしい話なんだけれど、主演女優のヌードシーンばかり印象に残っていた映画がある。それ以外の肝心な部分が、記憶からすっぽり抜けていたwww
だけど今日もう一度観直して、かなり奥深いテーマについて描かれた作品だったことを思い出した。
『愛を読むひと』(原題:The Reader)という2008年のイギリス・ドイツ合作映画。15歳の少年と親子ほど離れた女性との関係を描いた物語。ただドイツが舞台になっている作品で、第二次世界大戦時代の暗い影がつきまとっている。
有名な作品なので、ストーリーは割愛しよう。ケイト・ウインスレット演じるハンナは、ナチスのSSに所属していた過去がある。収容所の看守として働いていた。ゆえにユダヤ人の大量虐殺に無縁ではない。戦後に裁判を受ける。
主人公のマイケルは、15歳の夏にだけ彼女と関係を持った。それ以来会うことはなかったけれど、大学で法律を学んでいたとき、この裁判の傍聴で被告席のハンナと再会する。そして彼女が15歳の自分に本を読ませたのは、彼女が文盲であったからだとようやく知る。
結果としてハンナは有罪判決を受ける。最後まで自分が文盲であることを隠し通したことによって、被告たちのなかでも最も思い罰を受ける。やがてハンナが刑務所に収監されてかなりの期間が経ったあと、マイケルはあることを思いつく。それはカセットテープを使って、彼女に物語を聞かせようという試み。
そして文盲だったハンナは、そのテープを使いながら文字の読み書きを学ぶ。そして出所の日が来たけれど、そこに悲劇が待っているという物語。
映画を見ているだけでは、登場人物たちの心理がわかりづらい。それでボクは原作をすぐに図書館で予約した。それを読めば、もっとくわしいことがわかるだろうと思う。とりあえず、いまの段階で想像できることを書いておこう。
おそらくこの映画は、『無知』について語っていると感じた。それは裁判中のハンナの言動に象徴されている。収容者に大量のユダヤ人が送られてくる。ゆえに週に10人はアウシュビッツに送らなくてはいけない。その人選は看守の仕事だった。
ハンナは裁判で気になる言葉を発する。「次から次に囚人が送られてくるのだから、移動させるのは仕方ない」という意味の発言だった。その人たちが死ぬことを理解しているし、それはナチスの命令であるのは事実。だけど、ハンナ自身にも、どこか罪悪感が希薄に見える。
これはあえて彼女の文盲とひっかけることで、人間の『無知』を象徴しているんじゃないだろうか? つまり無知ゆえに、人間は酷いことをやってしまうということ。
そしてハンナが読み書きを習うということは、その『無知』から脱却することになる。つまり自分のやったことのおぞましさに直面せざるを得ない。ハンナの自殺は、人間が『無知』から脱却したことによって、罪の深さを目の当たりにすることを象徴しているように思う。
彼女は文字を学ぶことで、開けてはいけない自分の心の深淵を覗いてしまったのかも。だから刑務所の外に出ることに耐えられなかったのでは。
そう思うと、マイクの冷たい態度もなんとなく想像できる。彼は結果としてハンナが読み書きを覚えたことで、裁判のときに見せていた『無知』から抜け出してしまうのではないかと恐れていたのかもしれない。手紙に返事を書かなかったのは、その恐怖ゆえじゃないだろうか。
善意のつもりが、結果として彼女に地獄を見せたかもしれない。そう自分を責めていたんじゃないだろうか。だから出所する1週間前に、「何を学んだか」と訊いたのかも。きっと彼も怖かったんだと思う。これはボクの想像だけれどね。
ということで原作を読めば、新しい何かが理解できるかも。そしてもう一度映画を観たら、ラストにおける二人の行動の真意がわかるかもしれないね。
ブログの更新はFacebookページとTwitterで告知しています。フォローしていただけるとうれしいです。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。