損得勘定はしんどいだけ
ボクは経理や財務関係の仕事をしていた期間が長い。だからつい損得計算をする習性がある。
得られる収入や便益から、支払う経費や労力を差し引く。それでマイナスになるようなものごとには手を出さないことが多い。
ただしこれには条件がある。あくまでも客観的な数字で判断できるものであること。この損得勘定に数字で計れないものを持ち込むのはまずい。ましてや人間の感情を計算に含めると、かなり面倒なことになる。
基準が曖昧なものに損得勘定を当てはめると地獄が待ってる。感情論が優先することになり、自分に直接的な損失がないのに、他人の利益を自分にとっての不利益だと錯覚してしまう。
『他人の得=自分の損』という、客観的な損得勘定を超越した世界に迷い込む。そのことについて触れた記事がある。
「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く
リンク先の記事に、「他人の得が許せない」という人の実例がいくつか出ている。まさに地獄。こんな心境になったら、自分は不幸だとしか思えないだろう。
定食チェーン店の『やよい軒』で、ご飯のお代わり無料を試験的に有料にするという話が出ているそう。その理由は、お代わりをしない客が「不公平」だと訴えたこと。同じ料金なのにお代わりを食べられれない自分は損をしている、という発想だろう。
大学の事例も興味深い。ある学生が、出席を取らない准教授に苦情を申し出たらしい。教授にすれば、ほとんどの学生が出席している。さらに定期的に理解を確認する試験をしているので、あえて出席を取る必要はないと判断していた。
だけどその学生の意見がユニーク。「真面目に出席している自分より、欠席している人間の成績がいいことに納得できない」というもの。もうそこに何かを学ぶという学生の本分はない。講義に出席するかどうかだけにこだわっている状態。
他人との比較に損得勘定を持ち込むと、負のループにはまってしまう。なぜなら人生というのは損得がつきものだから。ご飯を好きだけお代わりできる人や、講義に出なくても勉強のできる人が得かどうかはわからない。だけどそうした個人差は常につきまとう。
さらに運不運というものは誰にでもある。想定外の幸運に恵まれたり、想像もしなかったアンラッキーを経験することはある。それらの出来事に対して損得勘定だけで対応していたら、生きづらくて仕方ないだろう。
ボクはそんなとき、こう考える。簿記を勉強した人ならわかってもらえると思う。
どれだけ資産が多い会社も、どれだけ負債を抱えている会社も、『借方』から『貸方』を差し引くと数字はゼロになる。これは中小企業でも、Appleのようなグローバル企業でも同じ。結局はどちらも実態は『ゼロ』、つまり『無』だということ。これは仏教の教えにも通じる。
そう思えば、多少は気楽になると思うよ。
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