死んだら思い出したいこと
今日は冬至という大切な節目。以前は新しい目標等をブログで公言していたけれど、ここのところはそうする必要がないほどそれらの行動は日常化している。
1年365日休まずに小説を書くこと、2日の1本のペースで映画を観ること、3日の1冊のペースで本を読むことを、ここ2〜3年は継続している。だから盆も正月も何かを書き、映画は年間で180本以上を観て、最低でも本は年間で100冊を読了している。
ペースが落ちたのは読書かな? ビジネス書なら1日1冊ペースで読めるけれど、小説は考えながらじっくりと読むようになったので、あえてスピードを落としている。それで平均して3日に1冊のペースになった。
だけどせっかく冬至という節目を迎えたので、ボクが最近考えていることを書いてみようと思う。
それは、自分が死んだあとの回想を意識した生き方。
説明する気も、証明する気もないけれど、人間が死んだら終わりだとは思っていない。ボクという『自我』は希薄になるだろうけれど、それまでの経験を総括した明確な意識が存在していることを確信している。
だからこの世を去ったとき、この人生をふり返ることがあるはず。そのときにどんなことを思い出すだろう? ボクはそのことをずっと考えている。
たかだか50年強の人生を思い返しても様々なことがあった。うれしいこと、楽しいこと、恥ずかしいこと、悔しいこと、悲しいこと、反省すること、後悔すること等、数えあげたらキリがない。
でもそんな記憶のなかでいまの人生をふり返ったとき、ほほえみを浮かべながら思い出すのは日常のささやかな『幸せ』じゃないだろうか? ボクはそう思うんだよね。
辛いことや悲しいことは、いまこの人生を経験中だから心にのしかかる。だけど肉体を離れて俯瞰した視点で人生を見つめるとき、思い出すのは小さな『幸せ』だと思う。きっと悲しいことなんてどうでもよくなっているはず。思い出すのはなにげない『幸せ』だろう。
たとえばボクが就寝前に本を読んでいるとき、猫のミューナはボクの足の上でぐっすりと眠っている。起こさないように足を固定するので、姿勢として結構辛い。だけど可愛い寝顔を見つめながら本を読んでいるときは、言葉にできない『幸せ」を感じている時間。
あるいは今日の午後のようなこと。クリスマスにはまだ早いけれど、朝から妻と一緒に神戸元町の大丸へ出かけて、クリスマスの御馳走を買い込んできた。そして帰宅してコタツに食べ物を並べ、シャンパンで乾杯しながら、京都で行われている高校駅伝をテレビで楽しんだ。
ボクが死んだら、きっと今日のことを必ず思い出す。だからあとでふり返ることができるようにごちそうの写真を撮ったし、食事をしながらその光景をしっかりと脳裏に焼き付けた。ミューナの寝顔を見ているときも同じで、その姿を忘れないよう心に刻みつけている。
自分がいつ死ぬのかはわからない。30年後かもしれないし、明日かもしれない。だからこそ日々の生活のなかで小さな「幸せ』を見つけて、それを味わおうと強く意識している。死んでから思い出すことの多いほうが楽しいものね。
逆に言えば、年齢を重ねてから心に重くのしかかるようなことをやらないように注意したい。殺人なんかやらかしたら、死んでから楽しい思い出をふり返る心の余裕がないからね。でも殺人なんて極端だと思っている人がいたら、気をつけたほうがいいよ。
だって普通に自動車を運転していて、アクセルとブレーキを踏みまちがえて歩行者を死なせてしまうかもしれない。そんなリスクを負わないためにも、高齢になれば免許証は返納するべき。ボクは自動車を手放したことで、少しはリスクを減らせたと思っている。
いまから100年くらいしたら、あの世で妻と猫のミューナと一緒に、今日のことを思い返してみたいなぁ。
ブログの更新はFacebookページとTwitterで告知しています。フォローしていただけるとうれしいです。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。
『第1回令和小説大賞』にエントリーした小説を無料で読んでいただくことができます。くわしくはこちらからどうぞ。