初めて知った戦後問題
世界で初めて核兵器が使われて75年。今朝の午前8時15分には、大勢の人が広島を思って黙祷したことだろう。
それにしても75年という数字を見ると驚く。ボクにとって生々しい記憶が残る阪神淡路大震災が起きて、今年で25年が経った。だけどボクが生まれたとき。ボクの親世代以上の人たちは終戦から20年も経過していない世界で暮らしていた。だから当時の彼らにとって、戦争が生々しい体験だったことを想像できる。
だけどそれから半世紀が過ぎ、いまや戦後75年を迎えることになった。ここまでの間、様々な戦後問題が取り上げられてきた。原爆によって亡くなった人の補償問題や、日本が軍を進めたアジア諸国に対する賠償問題等があった。
ボクが子供から成人になるころまでは、中国残留孤児の捜索が大きな問題となっていた。20代のころに山崎豊子さんの『大地の子』という小説を読んで、中国残留孤児の実態に胸を痛めた。
だけどまだボクの知らない戦後問題があった。
「どうか私を日本人と認めてほしい…」フィリピン残留日系人たちの苦悩
それは『フィリピン在留日系人』というもの。
戦前、多くの日本人がフィリピンに向かった。ほとんどが貧しい農家の人たちで、移民したのは約3万人とのこと。その多くがフィリピンの女性と暮らすようになり、子供も生まれた。
ところが戦争が始まった。日本軍がフィリピンを統治したことで、移民たちは現地で協力したり、徴兵されて戦地へ向かった。それゆえ戦争に巻き込まれることで、移民たちは敵国民として現地の住民から追われ、家族が離散して多くの人が亡くなった。
運よく生き延びても、日本が敗戦すると元移民の人たちはフィリピンから強制送還された。だけど妻や子供は残されたまま。その子供たちを『フィリピン残留日系人』と呼ぶ。
当時の法律だと、日本もフィリピンも子供の国籍は父親と同じとされたらしい。だからフィリピンに残された子供たちは、日本国籍もフィリピン国籍も得られない。どっちつかずの無国籍状態で、貧困のなかで差別に耐えて生きるしかなかった。
だけど近年になって、ようやく日本での戸籍を作る就籍が認められてきた。ただし問題は父親が日本人であることを証明できないこと。戦争の混乱で離散してしまい、戦死した父親も多い。日本の役所は相変わらず柔軟性に乏しく、明確な証拠がないと日本国籍を認めないそう。
戦後75年が経過して、二世の多くは高齢者となっている。それでも父親の祖国を見たい、日本人として認めて欲しい、という悲願を抱き続けている。こんな問題がいまだに残っていることを、恥ずかしながらボクはまったく知らなかった。
ただ考えれば考えるほど、切なくなってしまう。日本国籍を取得して日本で暮らしている人もいる。だけど中国残留孤児のときにも問題になったけれど、日本での生活が保証されているわけじゃない。それはフィリピンの残留二世でも同じだろう。ましてや高齢の二世が日本で暮らすことはさらに難しい。
彼らが戦争による被害者なのは明らかだけれど、いまの法律ではどうしようもないという現状。う〜ん、やっぱりまだ戦後処理は終わっていないんだね。そのことを痛感させられた記事だった。
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