『悟り』なんて捨てちゃえば
超絶久しぶりにスピリチュアル系の本を読んだ。タイトルに惹かれたので、たまには小説を離れるのもいいかと思って。
2021年 読書#81
『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる:〜非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー〜』中野真作 著という本。
すごぐ長いタイトル。簡単にいえば『悟り』について書かれた本。著者の悟り体験を記したもので、これまで多くの著者がこのような体験記を世に残している。
個人的な感想を述べおこう。入門書的なものとしてはとてもいい本だと思う。こうしなければいけない、的な押し付けもないので好感を持った。巻末には参考図書が分類別に列記してあって、その多くをボクも読んだけれど参考になる本が紹介されていたと思う。
ただしこのタイプの本を読むときの注意事項がある。『悟り』体験というのは主観的なものであって、100人いれば100通りあることを自覚する必要がある。この本に書かれているのは著者の個人的な体験であって、他の本も同じことがいえる。
書かれていることを絶対的な方法として捉えたり盲信してしまうと、この方法がベストだと思い込んでしまう。それは他人のなかに自分を見つけようとする行為であって、永遠に答えにたどり着くことがない。徒労に終わるだけになる。こんな場合もあるんだ、という心構えをキープしながら読み進めたほうがいい。
おそらく著者もそのことを意識して執筆されているはず。そもそも『悟り』を二元化の象徴である文字にすること自体が無謀。言葉は記されたと同時に、二元性を有してしまう。だから言葉や文字で伝えられない。それゆえ本当に悟った人は、何もいわないし書かない。ただあるがまま、と語るだけ。
ボクも一時期、こうした本を漁りまくった。そしてそれを実践するために瞑想を続けた。だけどいまはあえて何もやっていない。こうした本でさえかなり久しぶりに読んだ。
それは『悟り』なんて必要ないと考えているから。『悟り』なんて捨てちゃえばいいと思っているから。
なぜなら究極的にこの世界は、たったひとつのもので構成されていると確信している。だけど多元性と多様性を通じてワンネスを理解するため、『私』という自我をわざわざ創り出しているだけ。つまりどんな人もそのことを魂のどこかで自覚していて、悟っていない人なんていない。忘れたふりをしているだけ。
だったらそのノリを大切にしたい。ワンネスを徹底的に忘れて『私』をこの世界で感じていけばいい。そう思っている。ボクはエド・シーランでもなければ、トム・クルーズでもない。その経験は彼らに任せておいて、ボクは『高羽そら』でしかなできない経験に没頭するべき。限られた時間を大切にして、日々を生きることに全力を注ぐべきだと思っている。
悟らなくては、悟るべきだと考えてる人は、自分が悟っていない存在であることを、ひたすら呪文のように言い続けているのと同じ。だから貴重な時間を無駄にして、永遠に手の入らないゴールを求めて放浪してしまう。
そんなことより、『私』をまっとうするほうがいい。そしてそこにしか『悟り』は存在しないと思う。ボクは、自分が悟っていないことを知っている。世界や宇宙はわからないことだらけだと自覚している。なぜなら『私』であることを受容しているから。それでいいと思う。
どうせいつかは、たったひとつの世界に戻るんだからね。そのときに少しでも多くの土産を持ち帰ることができるよう、『私』という時間を必死で生きたいと思う。そう考えながらこのタイプの本を読むと、明日への活力を活性化できると思うよ。
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