これで娘を殺した奴を赦せる?
ボクの宗教観はちゃんこ鍋とよく似ているwww 特定の具材にこだわらず、そのとき美味しいものを一つの鍋に放り込んだような状態。
物心ついたころはお寺が運営する保育園に預けられていた。そこでみっちりと仏教のことを聞かされた。ところが小学校に入る前に引っ越した先の幼稚園はキリスト教関連のところ。それゆえこれまたみっちりとキリスト教について教えられた。その影響で自宅近くの教会にまで遊びに行っていた。
そんな環境だったせいか、宗教というものに関して客観的な距離をとっている。特定の宗教にのめり込むことはないけれど、各宗教のエッセンスに魅力を覚えていて、それらを人生に取り込もうと思っている。世界的に見れば宗教的なマイノリティに属するだろう。
海外では特定の宗教に生涯を通じて関わる人が多い。その代表がヨーロッパやアメリカで主流となっているキリスト教。宗派によるちがいがあっても、精神的な支柱としてキリスト教が存在している。それゆえ映画の世界では、宗教的なテーマが取り上げられることがある。これが意外と面白い。
久しぶりにキリスト教観を問いかける素敵な作品を観た。ただしこれは好みが分かれる映画だろう。キリスト教に関心がない人は、モヤモヤしたまま終わってしまう作品だと思う。ボクも別の意味で、モヤモヤしたものが残った作品だった。
2021年 映画#176
『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』(原題:The Shack)という2017年のアメリカ映画。写真の左から2人目のサム・ワーシントンが主演している。ボクの好きなイギリスの俳優で、この映画でも娘の死に苦しむ父親を見事に演じていた。ちなみに右端の女性は日本人のすみれさん。
主人公のマックは家族思いの素敵な父親。妻のナン、長男のジョシュ、長女のケイト、そしてまだ幼い次女のミシーと暮らしていた。ただマックはアルコール中毒の父の暴力に耐えて生きてきた少年時代の暗い過去を背負っている。
このままでは自分も母親も殺されてしまう。そこで13歳のとき、父親のウイスキーに殺鼠剤を入れて殺したという過去を背負っている。この罪悪感が、映画の後半でも彼の行動に影響を与える。
ある日の夏、マックは3人の子供を連れて泊まりがけでキャンプに出かけた。妻のナンは仕事で行けなかった。キャンプを楽しんで、帰宅しようとした当日に事件が起きる。湖にボートを浮かべて遊んでいた長男のジョシュと長女のケイト。ところがケイトがふざけてボートの上に立ったことで転覆する。
溺れて死にかけたジョシュを助けたマックは、車の前で一人で絵を描いたいたミシーがいないことに気づく。警察が大捜索をするけれど、最悪の結果が待っていた。その当時に警察に追われている連続殺人犯に誘拐されて、ミシーの衣服と血痕だけが見つかった。
この事件で家族から笑顔が消える。マックは娘を奪った犯人への怒りに囚われ、長女のケイトは自責の念で心を閉ざしてしまった。妻のナンは夫が自殺しないかと心配するほどだった。そんなとき、マックに不思議な手紙が届く。それは神からの招待状だった。
指定されたのはミシーの衣服が見つかった廃墟の小屋。そこでマックは不思議な出来事を体験するという物語。彼を待っていたのは、先ほどの写真の3人。
キリスト教の三位一体を知っている人にはピンと来るだろう。黒人の女性は神で、男性はイエス・キリスト、すみれさんが演じているのは聖霊。神と子と聖霊という三位一体を象徴している。
この3人に出会ったことで、マックが娘の死に向き合い、凶悪な犯行を行った犯人を赦すという物語。そして心が傷ついた長女のケイトを癒し、残された4人で前向きに生きていこうとする結末。
その過程がどのようなものかは、あえてここでは書かない。このストーリー展開で興味を持った人なら、本編を観た方がいいと思うから。自分の感覚を素直に感じるべき作品だろう。逆に神や死後世界に興味のない人なら、時間の無駄だと感じるかもしれない。
ボクの感想としては、このブログのタイトルに書いた通り。キリスト教の主旨としては理解できる。だけど本当にこれでマックは犯人を赦すことができるか疑問だった。なぜなら神は究極的な質問に答えていないから。
なぜこの世に悪が存在するのか? なぜ人は苦しむのか? 完全なはずの神が、なぜそんな不完全な人間を創造したのか?
この質問に映画の神は明確に答えていない。といっても映画だけで判断するのは不公平なので、ボクはこの映画の原作を読むことにした。そのうえでまた感想をまとめようと思う。
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