なぜ中国版は結末を変えた?
先月の下旬、ボクが大好きな映画の結末が変更されたというニュースを見た。古い映画なのに、中国でのネット配信の際に変更されたらしい。
その理由が気になったので、久しく観ていなかったその作品を観直すことにした。
2022年 映画#23
『ファイト・クラブ』という1999年のアメリカ映画。この映画内で死者が出るのはたった一人なのに、暴力シーンが多いことで話題になった作品。たしかにそうなんだけれど、映像としてはキアヌ・リーブスが主演している『ジョン・ウィック』シリーズのほうがはるかにエグい。まぁ当時の時代的な反応だったんだろう。
それよりもこの作品は、ブラッド・ピットとエドワード・ノートンの怪演とも言うべき素晴らし演技に支えられている。ブラッド・ピットは『12モンキーズ』という映画を思い出すファンキーな役どころ。
エドワード・ノートンは彼のブレイク作である『真実の行方』で演じたアーロンを彷彿とさせる演技だった。とにかくこの二人がすごい。エドワード・ノートンが演じる『僕』は、極度の不眠症に苦しんでいた。
だけどガン患者等の自助セラピーに偽患者として参加することで、感情を解き放して泣くことができた。そうするとその夜は眠ることができる。中毒のようになってあらゆるセラピーに通うけれど、ある日ブラッド・ピット演じるタイラーという男と出会って人生観が大きく変化する。
彼と死ぬほど殴り合うことで、生きていることを実感できた。その快感はセラピーを上回り、彼の人生を前向きにするものだった。やがて大勢の仲間を集め、『ファイト・クラブ』と呼ばれるようになった。
その組織は無政府主義、反資本主義的なメッセージ性を持つようになってくる。人は殺さないけれど、大手企業に爆弾等を仕掛けることで騒ぎを起こすようになった。暴走するタイラーは親衛隊のような仲間を増やしていく。『ファイト・クラブ』の創設者である『僕』は疎外感を覚えるようになった。
やがてタイラーは極秘の計画していることがわかる。大企業のビルを一気に爆破するというテロ行為らしい。それを止めようとするが、タイラーの居場所がわからない。必死で行方を探すうち、『僕』は恐ろしいことに気づく。
タイラーと『僕』は同一人物だった。つまり多重人格の存在であり、タイラーとして活動している記憶が『僕』にはない。だから彼を見つけられなかった。そして問題のラストシーン。
『僕』はタイラーの正体を知り、自分に銃を向けて発砲することで心の中からタイラーを締め出すことに成功する。だけど爆弾はすでに大量に仕掛けられていて、崩れゆく複数のビルを見つめているシーンでエンドロールとなる。これが本来のエンディング。
中国で配信された最近のラストは、『僕』がタイラーを締め出すのは同じ。ところがビルが爆破する前に暗転となり、「警察は迅速に計画の全貌を突き止め、犯罪者全員を逮捕し、爆発を未然に防ぐことに成功した」というメッセージが流れる。続けて、想像の産物であるはずのタイラーは治療のため「精神科病院」に入院させられ、後日退院したと説明されるらしい。
なんやねん、このエンディングは!!!
最悪やん。この中国版の意図がまったくわからない。こうしたテロは絶対にダメだということだろうか? だけどフィクションだし、映画としてはこのなんとも言えないラストシーンが最高なんだけれど。ボクはこのシーンが見たくて最後まで暴力シーンを我慢しているのに。
実はこの映画に限らず、中国で公開される作品のエンディングが変更されることが多いそう。それゆえ中国版として別バージョンを用意する作品もあるらしい。それでも構わないから興行収入が必要なのかな? どうも納得いかない。
久しぶりにこの映画を観て、やっぱりオリジナルのエンディングがいいと思った。ところが原作を読んだことがないのに気づいた。原作と映画もかなりちがうらしい。だったらきちんと原作も読もう。そうすれば中国版の意図がわかるかも。知らんけどwww
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