死への準備期間は恩寵かも
先日のブログで書いたとおり、時間を見つけて終活マニュアルを書いている。まだ役所の手続きを書き出したところなのに、何かと煩雑で面倒だと感じる。同じ区役所でも手続きする窓口を移動しなくてはいけない。もっと簡略化できないものかなぁ。
自分が死んだと仮定してマニュアルを書いていると、不思議なもので『死』が身近なものに感じてくる。もちろん本当に死期が迫っている人の気持ちに比べたら、死を感じるなんて言葉に赤面してしまう。だけど何もしないよりいいに決まっている。
今日、安倍元総理の告別式の写真をネットで何度も目にした。一週間前の安倍さんがその写真を見たとしたら、何が起きたのか理解できないだろうと思う。あの事件の状況なら、今後に計画されていたことや、人生でやり残したことを考えている時間の余裕はなかったはず。
自殺するのでない限り、人間は死に方を選べない。老衰か病気か、あるいは事故や事件で命を落とすのか自分で決めることはできない。ただ確実なのは、絶対にいつか死ぬということ。
ボクはできることなら自分の死期を知りたい。明晰夢で自分の未来を見たとき、死ぬのが『4月』というのだけを確認したことがある。だけどいつの4月なのかわからない。病気で長患いするのは辛いだろう。だとしても、プツンと停電するようにいきなり最期を迎えたくない。予言でも余命宣告でもいいから、終わりの時期をボクは知りたい。
なぜならそれまでに心の準備をしておきたいから、難しいだろうけれど、そうありたいと願っている。死への準備期間が持てるということは、ボクにとって恩寵のようなものだと考えている。そんなボクの想いを代弁してくれるような映画を観た。
2022年 映画#100
『グッバイ、リチャード!』(原題:Richard Says Goodbye)という2018年のアメリカ映画。写真のジョニー・デップが主演している。タイトルでわかるように、彼が演じているのはリチャードという英文学の教授。
芸術家である妻のヴェロニカ、ハイティーンの娘のオリヴィアとの3人暮らし。ある日リチャードは、医師からガンだと告げられて余命宣告を受ける。治療をすれば1年から1年半。治療しなければ半年とのこと。
それまで大学教授としてそれなりに過ごしてきたリチャード。病気を知って自暴自棄になる。ところが妻と娘に告白しようとしたとき、いきなり娘のオリヴィアがレズビアンだとカミングアウトする。そのことに抵抗した妻とケンカになり、その勢いで妻は自分が不倫していることを告白する。
ということで家族に告げるタイミングを失ってしまった。そんなリチャードを支えてくれたのは、親友の教授であるピーター。彼にだけは事実を告げ、自分は研究休暇を取って一人で最後を迎えると話す。
そして受け持っている生徒たちには、メチャクチャな申し出をすることで、本当にやる気のある学生だけを残す。この辺りはコメディとしても笑えるけれど、その生徒たちとの交流によって、リチャードは残りの人生を大切にしていこうと考えるようになる。
それまでの生き方を変え、やっていなかったことに挑戦する。生徒とバーで飲み明かしたり、バーの店員を口説いてセックスしたり、学生からマリファナを手に入れて吸引したりと、ジョニー・デップならではの演技に笑いながらも感動させられた。
そして先ほどの写真のシーン。学期末のパーティーの席で、リチャードは自分の病気を告白する。妻のヴェロニカは不倫相手の学長の席に座っていて、初めてその場で夫の病気を知ることになる。緊張と弛緩が見事にミックスされた場面で、この映画の最大の見せ場だと思う
半年という準備期間があったことで、リチャードは苦しみながらも自分の人生にケジメをつけることができた。関係が破綻していた妻とも和解し、娘にもきちんと別れの言葉を伝えることができた。そして愛犬とともに、車に乗ったリチャードが去っていくシーンで終わる。
丁字路の突き当たりで、右か左しか道がない。その道はそれまでのリチャードの人生を象徴しているのだろう。彼は少し悩んで微笑むと、右にも左にも曲がらず、まっすぐにそのまま進んでいった。そしてエンドロールとなる。このラストシーンに、この物語のすべてが集約されているように感じた。
余談だけれど、とても面白いことに気づいた。不倫をしているヴェロニカと大学の学長。ベッドシーンがけっこう生々しい。実はこの二人、実生活では本当の夫婦だった。そりゃ、少しくらい過激な撮影でもできるよなぁwww
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