他人の人生を語る難しさ
ボクたちは主観によって世界を見ている。同じものを見ていても、人によって感じていることがちがう。五感を通じて入ってくる情報は、自我によるフィルターにかけられて処理されるから。どれだけ客観性を維持しようと思っても、主観的な見方を完全に手放すのは無理。
だから自分以外の他人について語るとき、それはあくまでも自分の判断を述べているに過ぎない。ある人物の一面を述べているのは事実。だけど人間の本心はその人にしかわからないし、対象の人物が経験している人生のすべてを把握することなんてできない。だから所詮は見ている人の人生観によって、勝手に他人を評価しているだけ。
これは小説を書いたり映画の脚本でも注意するべきこと。登場人物の人生を描こうする場合、作家の経験の範囲を超えることはできない。最終的には想像力に頼るしかなく、ある人物の人生を語り尽くすのは難しい。
だけど小説や映画は、人間について語ることが避けられない。それが創作の目的なんだから。
ある小説を読んで、人間の人生を描くことの難しさを感じさせてもらえた。
2022年 読書#96
『三叉路ゲーム』麻野涼 著という小説。警察官が活躍するミステリー作品。とてもよくできたストーリーで、事件が解決していく展開に引き込まれた。ただし気になったのが、登場人物の多さ。誰に感情移入していいのか戸惑っているまま終わってしまったという印象だった。
事件の発端は少女の誘拐事件。交通課の警察官の娘というのが物語の鍵。誘拐犯は複数らしく、飛ばし携帯という他人名義の携帯電話を使って連絡してくる。ただし目的がわからず、「三叉路ゲームの開始!」というメッセージが送られてきた。
いきなり種明かしをしておくと、この誘拐事件には殺人事件と交通事故の冤罪という二つが関係している。娘を誘拐された警察官は、ある交通事故で事故調書を改竄した。若いトラック運転手の追突が原因なのに、別の人間を事故の原因として報告した。冤罪によってその人物が実刑2年の判決を受けてしまう。
重い判決が出たのは、容疑者の妻を含めて3人が亡くなっているから。なぜ警察官は嘘の報告書を作ったか? 想像できるように彼には弱みがあった。内務調査の検察官にその事実を握られていて、嘘の報告書を作るしかなかった。なぜなら事故を起こした若いトラック運転手が、その検事の息子だったから。
ドライバーの息子を父親が必死で庇ったのは、息子が強姦殺人を犯していて、父親に助けてもらおうと必死で車を走らせていたから。その道中で事故を起こしたという事情だった。それゆえ息子の殺人を発覚させないため、事故調書を偽造する必要があったということ。
つまり最悪なのはドライバーとその父親という図式。
そうなると誘拐事件の犯人は想像できる。交通事故で冤罪を受けた人物、事故で家族を失った遺族、そして娘を強姦殺人で殺された両親。さらに交通課警察官の弱みの対象となっている女性。これらの人物が協力して少女を誘拐した。目的は交通事故の真相と、殺人事件の犯人を警察に究明させるため。
よく考えられているストーリー。ただ事件に関わってくる警察官が多い。そして著者はその複数の人物の人生を語ろうとしていた。そうなると本命がぼやけてしまい、誰を見ていいのか迷ってしまう。さらにこれらの人物の人生を描くには、紙面が少な過ぎる。だからどうしても中途半端感を覚えてしまう。それが残念だった。
注目する刑事を半分くらいにして深く掘り下げたら、さらに面白い物語になったような気がする。大勢を描きたいと思うのは作家の本能。だけど欲張らずに、描写する人数を絞ることが大切だと教えてもらえた作品だった。
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