パワハラが過ぎる聖書の神
クリスマスまで10日を切った。スーパーへ買い物に行くとクリスマス関連の商品だけでなく、すでに大晦日の年越し蕎麦やお節料理の材料が並んでいた。まだ半月もあるのにと忙しない気分だけれど、2週間くらいあっという間に過ぎてしまうんだろうな。
神戸はキリスト教の教会が多いので、クリスマスに向けたミサの案内をよく見かける。クリスマスというのは本来は宗教行事であり、クリスチャンにとっては大切なものなのだろう。でも日本におけるクリスマスは形骸化していて、チキンを食べてプレゼントを贈り合うというお祭り行事になっている。
でもそれでいいんだと思うよ。イエス・キリストの誕生日という本来の目的を忘れたってバチは当たらない。そもそもボクはキリスト教の聖書に登場する神や天使があまり好きではない。イエス・キリストという人物が伝えとされる言葉には真摯に向き合う気持ちがある。でも聖書に登場する神々はどうしても好きになれない。
なかでもキリスト教で違和感を覚えるのが『原罪』という概念。これは何度も聖書や関連書籍を読んだけれど、納得できる答えは手にしていない。その『原罪』をテーマにした著名作品を読了しても全く同じ気持ちだった。
2024年 読書#107
『失楽園』下巻 ジョン・ミルトン著という書籍。上巻の感想については『サタン推しになる『失楽園』』という記事に書いているので参照を。
17世紀の著名なイングランドの詩人であるミルトンの壮大な叙事詩である『失楽園』という作品。名前は知っていたけれど初めてトライしてみた。上巻を読んで想像していたより面白かったので下巻もすぐに読んだ。旧約聖書のバックヤード的な内容で、物語として読むと実に素晴らしい作品だった。
ただ上巻の感想でも書いたように、ボクはこの作品を読んでサタンたち堕天使が気の毒で仕方ない。さらに禁断の実を食べたアダムとイブを全面的に擁護したくなった。本気で書くと余裕で1万字は越えそうなので言いたいことのポイントだけ述べておこう。
アダムとイブが食べた禁断の実は、ボク個人の解釈として「二元化」をもたらすものだと考えている。善と悪、光と闇、そして男と女というように、この世に存在する全ては二元化されている。それは『たった一つのもの』からの分離の象徴であり、物質世界であえて創造されたものだと思う。
その分離から『たった一つのもの』へと戻るのが『悟り』というもの。つまり禁断の実は絶対に必要なもので、人間にとって最初から与えられているもの。聖書の神がアダムの肋骨からイブを創造した段階で、禁断の実を食べるまでもなく人間はすでに二元化されている。
つまり神が禁断の実を禁止したこと自体が意味のないパフォーマンスだと思う。いや、それは良心的な解釈であって悪意の目で見るならば、アダムとイブに禁断の実を食べさせない、つまり二元化という物資宇宙の真実教えたくなければ、エデンの園にわざわざ植える必要がない。
なのにあえて植えることで食べるのを禁止している。それは明かなトラップであって、サタンも、そしてアダムとイブもそのトラップにはめられている。そして『原罪』犯したという理由をつけて、人間や悪魔に罰則を与えている。ボクには聖書の神が人間や悪魔を罠にかけて罰する口実を作ったようにしか思えない。
現代風に言えば聖書の神は完璧なパワハラ。天国や天使の世界は完全に階層化されていて、上司の意見に逆らうことができない構造になっている。だから天使たちの言動にはどこか神に対する威圧的な忖度を感じてしまう。自らの創造物をもてあそぶような聖書の神の行動にはやはり違和感しかない。
罪を犯せば滅ぼすと脅す。そして実際にソドムとゴモラの街やノアの方舟のように滅ぼしてしまう。それが全能である神のすることだろうか? でもフィクションとしての『失楽園』なら映像化しても面白いと思う。ただし、ボクなら心に深い苦悩を抱えたサタンを主人公にするけれどね。
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