あるエッセイから見える運命論
今日も4日前に再発させたギックリ腰と奮戦中。腰痛は動いた方が早く治る。それで今日は思ったより天気が良かったので、午前中に妻と二人で散歩をした。賃貸物件の偵察も兼ねて。
ところが普段と違う道を歩いたので、神戸の坂道への対応をしくじってしまった。どうしても下り坂は腰への負担が増える。そのあたりの注意をやや欠いたことで、あまり効果的な運動にならなかった。まぁ、そういうこともあるよね。
でも始める前に意図したことと違う結果になっても、ボクはどんな行動も肯定的に捉えている。起きる出来事は全て必然であって、それには必ず意味があると考えているから。
ボクは運命論者なので、宗教的にいえば神、あるいは本当の自分である真我が意図した行動しかできないと考えている。そしてその全ての行動が、『悟り』へと繋がっていると確信している。
それは今のボクが過去の出来事を変えられないのと同じ。時間が存在しない世界に存在する真我の観点から見れば、人間に自由意志など存在しない。必死で悩んで選択したことであっても、そうすることは「決まって」いたと考えている。そして辛いことでもあっても、「起きることは必ず起きる」ということ。
ある女性のエッセイを読んで、そんな運命論の存在を強く感じた。
2025年 読書#11
『ふたつの結婚指輪』今村優理子 著という書籍。著者の今村さんは昭和53年4月から「アフタヌーンショー」というワイドショーのサブ司会をされていた女性。ボクは「アフタヌーンショー」という番組は知っていたけれど、ほとんど観た記憶がないので今村さんという女性のことも記憶になかった。
でも妻は著者のことを知っていて、この本を図書館で借りて読んでいた。その流れでボクも読んだ。そしてこのエッセイからボクは運命論が事実であることを強く感じた。
今村さんはオペラ歌手を目指されていて、その関係で舞台照明家の男性と結婚。それが昭和51年9月で、仕事の関係で別居婚のような状態が続いていた。著者の夫は舞台照明の勉強をするため、西ドイツへで留学をすることになったから。
今村さんが夫の待つ西ドイツにやってきて、ようやく本当の意味での新婚生活がスタートした。それは昭和52年3月のこと。ところが彼女に不幸が襲いかかる。わずか8ヶ月後の昭和52年11月に彼女の夫は交通事故で命を落としてしまう。
アウトバーンを走行中のスリップ事故だった。ドイツの法律等のこともあって、亡くなった夫にすぐに会えないという特異な状況を経験されている。そして昭和52年の暮れには夫の遺骨と共に日本へ帰国された。
そんな失意の今村さんに対して、「アフタヌーンショー」のサブ司会のオーディションを受けてみないかという誘いがあった。案内した人は、少しでも前を向いて欲しいという気持ちだったのだろう。
昭和53年4月から始まる番組で、1200人がオーディションに参加するという厳しい競争率の公募だった。その結果、今村さんはそのオーディションに見事合格した。
いきなりテレビ業界で働くことになり、その後の彼女の人生を大きく変えていった。当然ながらもし今村さんの夫が存命なら、まだ西ドイツにいただろうし、オーディションを受けることもなかったはず。
著者がテレビ業界で働くことは、彼女の人生にとって不可欠のことだったんだと思う。それは生まれる前に彼女の魂が決めたことであり、彼女の真我が意図したことだと思う。
もちろん彼女の夫の死を軽く扱っているわけではない。でも著者のその後の人生を見たら、この出来事は「決まっていた」と感じるのが自然だと思う。
そんなもの偶然だ。そう考える人は多いだろう。でもボクはこの世に偶然なんて存在しないと確信している。
偶然や自由意志が存在すると感じるのは、人間が『現在』という時空にしか意識をフォーカスできないだけのこと。時間のない世界から見れば、全ては決まっているとしか言えないと思う。
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