物にも意識と命がある
昨日の朝、かなりショッキングな出来事があった。それは腕時計に関すること。
昨年の7月1日から新しい腕時計を購入して使っている。以前に使っていた腕時計を買ったのは2013年の5月。電波ソーラーの時計だけれど、店員さんによると内臓パッテリーは10年くらいでダメになるとのことだった。
昨年の段階ですでに11年を超えていたので、ボチボチ寿命だろうと思って買い替えた。ボクは物にも意識と命があると考えている。だから腕時計であっても、衣服であっても、古くなって交換するときには感謝の言葉をかけるようにしている。
昨年に新しい腕時計を買ったことで、古い腕時計には「お疲れ様でした」と声をかけた。でもまだ動いていたので、寝室で置き時計として使うことにした。不思議なのは新しい腕時計を使い始めた7月1のこと。
置き時計としてチェストの上に置くと、その瞬間に時計のベルトがパチンと弾けた。前日まで普通に使っていたのに、ボクの腕に着けられることがないのを理解したかのような弾けた方だった。きっと置き時計として余生を過ごす覚悟をしたんだと思う。
その腕時計が昨日の朝に息絶えた。8ヶ月も正確な時間を知らせてくれていて、毎晩ボクがベッドで読書するときに時間を確認する相棒だった。3月3日にボクが眠る前までは普通に動いていた。なのに4日の朝になると完全に停止していた。
その停止の様子に涙が出てしまった。秒針も時針も共に12の文字盤と重なっているつまり午前0時を指した状態。さらに曜日やストップウォッチ機能を持つ時計内の小さな針も全て12時の位置に移動していた。本当に臨終という雰囲気。
おそらく時計の構造として、内臓電池が終了するとそうなるのだろう。でもボクにはこの時計が安らかに臨終したような気持ちになった。12年近くも使っていたから、数回の東京行きにも同行している。ミューナが5年前に発病して、病院通いになった時もいつもボクと一緒にいてくれた。
そんなことを思うと急に切なくなって涙が出てしまった。まるで愛するペットを看取ったような気持ち。だから丁寧に紙で包んで、感謝の気持ちを込めて処分させてもらった。埋葬するような気持ちだったなぁ。
やはり物には意識と命があると思う。どんな物質も、そして動植物も、元をたどれば素粒子の集合体。つまり「全てはひとつ」だということ。だから表現方法は違っても、時計のような物でも意識を持ってボクたちに接していると思う。だからどんな物でも大切にしたいと心の底から思っている。
そして最後の時まで見届けてあげたいと思う。それが使っているものの責任だろう。京都にいる頃、妻の母が亡くなって実家の整理をしていた時のこと。キッチンにあった寿司桶をどうしようかと妻と話していた。
「きっともう使うことはないだろう」と言った直後のこと。バチんという音を立てて寿司桶を形成していたタガが外れた。一瞬でバラバラになった寿司桶を見た時、あぁ、この子の最後だったんだなぁと感慨深くなったのを覚えている。
どんな物にも意識と命があると考えることで、物を大切にできるし、日常の掃除も気合が入る。せっかくこの世界で出会った物たちだから、最後まで大切に使ってあげたいと心から思う。
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