死後の視点から今を見る
今日はマジで寒い。ペアガラスのサッシなのに、朝は水がたまるほど結露していてビックリ。そしてゴミを出すそうと外に出ると、六甲山を見てさらに驚いた。
うっすらだけれど、雪化粧をしていた。雪国の人が見たらどうってことないだろうけれど、神戸市内は積雪が年に1度あるかどうかなので、かなり珍しい景色なんだよね。綺麗なので、つい写真を撮ってしまった。明日はさらに寒くなるらしいけれどね。
ついこの前まで紅葉が綺麗だった六甲山が、こうして冬の様相を見せていることに感動してしまった。最近はこういう印象的な風景を見ると、あと何回見られるのかなぁ、と真剣に考えてしまう。
人生の折り返し時点をとっくに過ぎているので、どうしても終わりを見てしまう。でもそれは、決して悪いことじゃないと思っている。むしろ積極的に考えるべきだと思うんだよね。
半世紀以上生きていると、人生は文字どおりに山あり谷あり。いいときもあれば、絶望するようなときもある。これは人それぞれで感じ方がちがうので、あくまでも相対的なものだろうけれど。
なんだか最近は何をやってもうまくいかないなぁ、あるいは体調がイマイチだなぁ、と思うことは誰にもあるだろう。そんなときボクは、『今』の人生を死後の自分が見ていると想像してみる。現在を、思い出としてふり返る。
でも自分が生きているであろう未来から思い出しても意味がない。二度とこの世界を生きることができない、家族とも話せないし、飼い猫を抱き上げることもできないという、死後世界から思い出すことが肝心。
そうすると、どんなことも愛しい思い出に見えてくる。例えば夫婦喧嘩だって、幸せに思えるんだよね。直接触れ合って、語り合って喧嘩できるなんて、どれほど幸せなことかと思ってしまう。
仕事がうまくいかなくて評価されないようなときでも、どこか苦笑しながら楽しめる。楽しいことやうれしいことは当然として、辛いことや悲しいことまでなつかしい気持ちで見ている自分がそこにいる。それどころか、取るに足らない出来事でさえ幸せに感じてしまう。
もちろんこれは、ある程度心に余裕があるときにしかできない。命に関わるほど辛いことに向き合っているときに、こんな気持ちになれないことはわかっている。だからこそ少しでも心に余裕があるときに、死後の視点から『今』を見るようにしている。
自分が『今』過ごしている1分、1秒が、どれほど貴重でかけがえのないものかを実感したいから。それを大切にしたいと感じたいから。そう思うと、ちょっとした落ち込みや悩みぐらい、すぐに吹き飛ばしてしまえる。
もう二度と戻れない世界だからこそ、すべてが愛しいと感じることができる。でもそれはある意味事実だからね。いつかは戻れなくなってしまう。
この写真のような景色を見ると、忘れないようしっかり目に焼き付けておこうと思う。そして自分が死んだあと、『あぁ、あのときは寒かったよなぁ」となつかしく思い出したい。
そんな景色や出来事を、残りの人生で目一杯体験したい。そのためには、毎日を目一杯生きなければ。持ちきれないほどの思い出を抱えて、この世界を去ることができたら幸せだなぁ。
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