『観る』のではなく『感じる』
明晰夢の記憶というのは、かなりリアル。今朝、ちょっと面白い夢を見た。
夢のなかである若い男性と知り合った。最初はケンカをふっかけられたんだけれど、ボクは夢だとわかっているから余裕の対応。話しているうちに意気投合して、その人の連絡先を聞くことになった。それは携帯の番号。
でも夢というのは不思議で、夢のなかのボクのスマホがうまく扱えない。電話番号を記録しようとしても入力できない。そこで夢にいた妻のスマホを借りたけれど、これまた同じ状態。仕方ないので電話番号を記憶して夢から戻った。
その電話番号なんだけれど、今でもはっきりと覚えている。もちろん相手の名前も。
もしこの番号に電話をかけたらどうなるんだろう? 朝からめちゃめちゃ気になっている。
試しに番号を押してみたい衝動に駆られているけれど、そこまで勇気がない。もし電話に出た人がその名前を名乗ったら、ボクはどう言っていいかわからない。
「今朝、あなたに夢で会ったんです。よろしく」なんて言ったら、完全にヤバいやつだと思われるだろうねwww
とにかくスマホのメモに名前と電話番号を記録しておいた。そして今日の日付も。もし将来的にこの男性と出会うことがあったら、いいネタになるものね。きっと信じてもらえないだろうけれど。
こういうことは理屈で考えても仕方ない。感覚として受け取るしかない。要するに『感じる』ことが大切になる。
それと同じく、『観る』のではなく、『感じる』べき映画を鑑賞した。
『ブンミおじさんの森』(英語原題:Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives)という2010年のタイ映画。
この作品は、カンヌ映画祭でタイ映画として初めてパルム・ドールを受賞した作品。そのときの審査員の一人だったティム・バートンがこう述べている。
「この映画は私が見たこともない、ファンタジーの要素があり、それは美しく、奇妙な夢を見ているようだった」
まさにこの言葉どおりの映画だった。ブンミという初老の男性が主人公。彼は腎臓病を患っていて、余命いくばくもない。その亡くなるまでの数日を描いた作品なんだけれど、とにかく不思議で難解なシーンが続く。
普通の映画のようにストーリーを追おうとすると混乱してしまう。例えば、この写真のシーン。左側ですわる半透明の女性がわかるだろうか?
この女性は19年前に亡くなったブンミの妻の幽霊。ブンミを迎えに来たような状態なんだけれど、となりにすわる甥っ子や、向かいにすわる元妻の妹は、一瞬のあいだ驚くだけ。その状況を普通に受け入れてしまう。
さらにこのあと、数年前に森で行方不明になったブンミの息子が登場する。その息子は全身がけむくじゃらで、猿の精霊になっている。誰もが(なんと幽霊まで)少し驚くけれど、その後は普通の家族の会話になる。
映画の途中で挿入されるタイの王女の映像は、どうやらブンミの過去生らしい。そしてブンミは自分の病気がカルマの結果だと口にする。貧乏ながらも真面目に農業を続けて来た男性だけれど、内戦のときに共産主義者を殺している。
戦争だから仕方ないんだけれど、そのことをずっと心に持っている。だからこの病気はそのカルマだと言って、笑顔で受け入れようとしている。おそらく西洋の人には少し伝わりにくい部分だと思う。
だけど仏教が浸透している日本人には、『感じる』ことができると思う。この映画はタイ仏教の死生観がメインになっていて、生まれ変わりやカルマというものが表現されている。とにかく不思議な映画だった。
ラストシーンなんてぶったまげたからね。ブンミの甥っ子とその母は、ブンミの葬儀を終えて都会のマンションに戻っている。お腹が空いたので食事に行こうということになり、二人は外出しようとする。
ところがそこにはテレビを見たままで外出しない二人が同時に存在している。息子のほうはもう一人の自分と母を気にするけれど、母親は気にしなくていいから、という様子で外出する。まるでパラレルワールドが生まれた瞬間のようだった。
ボク個人としては、かなり好きな作品。おそらく賛否両論が交錯すると思うけれどね。映画を『観る』人には辛いかもしれない。『感じる』映画だからね。
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