オリジナルはまさに怪人だった
先日、あるミュージカルを映画化した作品を観た。それは『オペラ座の怪人』。
初めてこの作品に触れて、感動のあまり原作を読みたくなった。なぜならミュージカル化されているということは、エッセンスを物語に盛り込むのが精一杯だろう。だからどうしても登場人物たちの、『生きた』声を聞きたくなった。
そして原作を読了して、なぜこの物語がいくつも映画化されたりミュージカルとなっているのか理解できたような気がする。本当に素敵な作品だった。
『オペラ座の怪人』ガストン・ルルー著という小説。
この物語のミュージカル作品、並びにそれを映画化するさい、オペラ座の怪人ことエリックのキャラがかなりソフトなイメージに変更されているのがわかった。そのほうが感情移入しやすいからだろう。
でも原作のエリックは、かなりヤバいやつ。映画ではクリスティーヌを自分のものにするため、彼女と恋仲のラウル子爵に刃を向ける。自分の妻になるか、ラウルの死を選ぶかどちらかにしろと迫る。
だけど原作のエリックはオペラ座の奈落に大量の火薬を貯蔵していた。そしてクリスティーヌに迫る。自分と結婚するか、何千人という観客とともにオペラ座の瓦礫の下で眠るか。完全にテロリストと化している。バッドマンのジョーカーに近いような悪党だった。
さらにオペラ座の建設にも関わっていて、優秀な腕を持つ石工でもあった。だから誰も知らない部屋や通路をいくつも作っている。ラウルが閉じ込められた『責め苦の部屋』は鏡を多用した部屋で、人間を狂気におとしいれて自殺へと誘うよう細工されている。音楽だけでなく、技術者としても異常な才能を見せていた。
だから物語全体として、かなりおどろおどろしい雰囲気がある。それだけにスリリングで読めば読むほど引き込まれていく。明らかに原作のほうが素晴らしい内容になっていた。
結果としてそんなエリックを改心させたのは、クリスティーヌの献身的な愛だというのは同じ。彼女の行動は、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるソーニャとよく似ている。
物語の最後で、改心したエリックが古くからの知人であるダロガに告白するシーンがある。自分の口づけを許したクリスティーヌについて触れたセリフで、醜い姿に生まれた彼がどれほど苦しみ、彼女の愛によってその苦しみから救われたことを語っている。涙が止まらなかった。
「ダロガ、あんたにはわかるまい。でもおれはあの哀れな母にさえ、口づけをさせてもらえなかった。母は逃げ出した……おれに仮面を投げつけて。どんな女も、決して……。ああ、だから、しかたないじゃないか? これほどの幸福に、おれは、おれは泣いた。泣きながら、彼女の足元にひれ伏した……そしてその小さな足に、泣きながら口づけした。あんたも泣いてくれるのか、ダロガ。彼女も泣いていたよ……天使が泣いたんだ……」
自分の母親にさえ忌み嫌われるなんて。これほど辛いことはない。クリスティーヌの愛がなければ、エリックは大量殺人を犯していただろう。映画ではクリスティーヌの墓に、怪人が花束を置くシーンで終わる。
でも原作はちがう。怪人ことエリックの墓に、クリスティーヌが彼にもらった金の指輪を置く。絶対に原作のシーンのほうがいいよなぁ。また何度も読みたくなる作品だった。
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