自我とは単なる記憶
夜になって布団に入り眠りについたあと、ボクの場合は90分ごとに目が覚めるので経験はないけれど、気がついたら朝だったということは誰にもあるだろう。
目が覚めるまでどれほど奇抜な夢を見ていても、一度起きたら昨日の連続としての今日を生きる。そのことを疑う人はいない。
でも昨日の記憶がないとしたら、人間はどうなってしまうのか?
そのことをテーマにした映画を観た。
2021年 映画#30
『博士の愛した数式』という2006年の日本映画。タイトルはかなり以前から知っていたけれど、なんとなく縁がなくて観る機会がなかった。初めて観たけれど、これほど素敵な映画だったとは!
監督を確認すると、黒澤明監督のもとで助監督をつとめ、ボクの大好きな作品である『雨あがる』や『阿弥陀堂だより』を監督された小泉堯史監督の作品だった。だからこれほど美しい映像だったんだ。もっと早く観ればよかった、といまさらながら後悔している。
映画はルートというあだ名の数学教師が、新任の挨拶で生徒たちに語るシーンで始まる。それは少年時代に出会った博士と母である杏子の物語。全編を通じてルートの語りという形式で物語が侵攻する。
ストーリーは気持ちいいほどシンプル。家政婦をしている杏子は、難しい案件の仕事を引き受ける。数学者だった博士は、交通事故で頭を打ったことで新しい記憶が80分しか継続しない。兄嫁である義理の姉に依頼を受けた杏子は、大邸宅の離れで博士の世話をすることになる。
博士と義理の姉には、どうやら不義の過去がある。二人が密会したその日に事故に遭遇したらしい。いまは独り身の彼女だけれど、義弟との時間は事故が起きた10年前から止まったままになっている。
杏子は最初のうちこそ戸惑うけれど、記憶を維持できない博士と良好な関係を築く。それだけでなく10歳の息子がいることを知った博士は、学校が終われば博士が暮らす離れに来させて一緒に夕食を取るように勧める。ということで3人の不思議な生活がスタートする。
記憶が継続しないから、翌日になれば最初から同じことを繰り返す。だけど杏子も息子のルートも、そのことを厭うどころか、博士を傷つけないように接していた。その親身さがかえって反感を買い、一時的に3人の関係が白紙に戻されることになるけれど。
だけど最終的にはハッピーエンドで終わる。博士と義理の姉との暗い過去が、杏子とルートの母子が加わることで光りが当たり、ある種のチームのような関係になっていくのが素敵だった。
博士の立場に立てば、これほど辛いことはないだろう。記憶が80分しか続かないことや、杏子にルートという息子がいることをメモして上着に貼り付けている。それでも翌日になれば、同じことを訊いてしまう。そんな自分に絶望する博士の様子を目にしたとき、涙が止まらなかった。
自我というのは『自分であることの記憶」だと思う。つまり自我=記憶だということ。だから80分しか記憶が続かないのは、自我が不安定だというのと同じ。
だけど自我は単なる記憶であって、その人物の本質は別にある。それは『真我』という本当の自分。
その証拠に博士は80分しか記憶がないのに、杏子とルートの心に永遠なるものを残している。それは博士の本質が二人に伝えたものだろう。たとえ自我が曖昧であっても、人間の本質を毀損するすることはない。そして本当に大切なものを伝えることができる。
そんなことを感じさせてもらえる、最高に素敵な映画だった。とにかく主演の寺尾聡さんと深津絵里さんの演技に圧倒された。本当にうまい。二人の素晴らしい演技を見ているだけで時間を忘れてしまう作品だった。
せっかくだからこの機会にベストセラーとなった原作を読んでみよう。映画とはちがった感動や気づきがあるかもしれないからね。
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