救われなかったドミートリイ
数十年ぶりの再読だが、読後すぐに感じたのは、「カラマーゾフの兄弟」との類似性である。
主人公はドミートリイ、父はフョードル、堀木はイヴァン、そしてヨシ子がアレクセイ。
カラマーゾフの兄弟では、ゾシマ長老がフョードルにこんなことを言っている。
「大事なのは、自分に嘘をつかないことです。自分に嘘をつき、自分の嘘に耳を傾ける人間というのは、自分の中にも周りの中にも、どんな真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになるのです。誰も敬わないとなると、人は愛することをやめ、愛をもたないまま、自分を喜ばせ気持ちを紛らわそうと、情欲や下品な快楽にふけって、ついには犬畜生にも等しい悪徳に身を落とすことになるのです」
これぞまさに主人公の辿った道ではないだろうか。
カラマーゾフの兄弟では最後にアリョーシャが子供たちに向かって清らかに人間讚歌を歌い上げるが、大葉葉蔵は救われることなく、犬畜生にも等しい悪徳に身を落とす。
「神に問う、信頼は罪なりや」。このフレーズは「大審問官」に相当する。
そしてイヴァンはこう言った。「老審問官としては、たとえ苦い、恐ろしい言葉でもいいから、何かいって欲しかった。しかし彼は無言のまま老審問官に近づき、静かにキスをするんだ。これが答えのすべてだった。老人はキスの余韻が心に熱く燃えているが、今までの信念を変えることはない」。
残念ながら葉蔵には、キスをしてくれる相手がいなかった。赦してくれる相手がいなかった。
そして、太宰にも、いなかったのだろう。