北村さん追悼文
北井君が52歳の若さで亡くなった。とても残念ではあるが、きっと充実した人生だったに違いない。そう思いたい。
しかしそう思うのはこっちの勝手であって、北井君本人はプロカードを取得してプロコンテストに出たかったのだろう。
無念だったろうと考えるのは生きながらえている私の傲慢さで、自らの傲慢さについて考えているうちに、北村さんのことを思い出した。
北村さんが40歳で亡くなったとき、私は次のような追悼文を書き、アイアンマンに掲載された。今は同じような文章はとても書けないが、このように考えていた人間もいるということを知っておいて欲しい。
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「永遠に生きる一瞬の人生」
山本 義徳
8月3日木曜日の深夜、北村さんの悲報を耳にした瞬間、朝霞台病院へと急行した。車で20分の距離がやけに長く感じられた。病院に到着、もう二度と動かない北村さんをこの目に焼きつけ、あまりにもこの手に重かった遺体を運んだその時、どうしようもない虚脱感と哀しみに包まれた。とても自制できないし、その必要もない。声をあげて哭いた。
死因や告別式の様子などは他の記事に詳しいだろう。ここでは北村さんの生き方に対する私の思いを綴っていきたい。
初めて北村さんに会ったのはもう10年も前になるか、学生時代の頃だった。JBBF系のジムではなく、スポーツクラブでトレーニングしていたおかげだろう、つまらぬ噂などからは逃れ、純粋に北村さんの肉体的・精神的大きさに触れることができた。目標ができたのである。いつか同じ舞台に立ちたい。この人に追いつきたい。北村さんのゲストやセミナーがあると聞いては参加していた。そして月日が流れ、ようやくライバルとして自他ともに認められるようになった。
12月に一緒に大会に出るはずだった。北村さんと同じステージに立つのが夢だった。もうそれはかなわない。8月末の大会に向けて、過去最高の仕上がりを見せ、日本人初のヘビー級優勝を目前にしていた。無念だったろう。でも、こんな言い方が許されるなら、私が北村さんの遺志を継いでいきたい。いつか日本人が続々とオリンピアに出場するほどレベルアップしてくれるのならば、喜んでその礎となりたい。
確かにスポーツは健康に良い。わけてもボディビルは多くの面で人々の健康に役立つと言える。しかし、健康や楽しみのためでなくスポーツをするとなると、話は全く違ってくる。私がこれから言う事は、一般人のボディビルに対する偏見を助長することになるかもしれない。一般的なビルダーとしてものを言っているのではなく、あくまでもアスリートとして最高のものを求める人間だけに通用する言葉だと思って欲しい。
アスリートとしてその究極を極めたいと思うとき、すべてのベクトルは勝利へと向けられる。これは他の競技でも同様だろう。F1レースにおける事故、パンチドランカーになったボクサー、タックルを受けて半身不随になったフットボーラー…。恐いなどとは言ってられない。すべて至高の境地は危険と隣あわせにあり、だからこそ人生を賭けたくなるほど面白い。
男が真に求めるものは何か。ニーチェによれば、それは危険と遊びである。あなたにとってボディビルとは何ですか?そう聞かれた時、ごく親しい人には「いのちを賭けた遊び」と答えるようにしている。北村さんもそうだったに違いない、私などは勝手にそう思ってしまっている。
退屈しながら生きるには人生は貴重すぎる。いいだろう、のんべんだらりとしたぬるま湯の人生なぞ要らない。月並みな幸せや安定した生活などくれてやる。いったい、何を不服を言う事があろう。たとえば狂乱した観客たちの声を背に、壮大なる音楽を身に纏いながらオリンピアのステージに立つ事ができるのならば。
“矢吹丈の生きかたが理想だ”確かこんな文章がかなり前に「ボクの履歴書」にあった。最後まで前のめりに、全力疾走で生きていきたい。そう考える人間が一番恐れる事は何だろう。周りの人たちを悲しませてしまうのでは、という懸念ではないか、私はそう思う。だから、私達は北村さんの死を哀しんではいけない。低音部の無い、アレグロの人生を駆け抜けていった彼の死を祝福してあげたい。北村さん、おつかれさまでした。あとは私たちにお任せください。もう、休んでもいいんですよ…