高田さんのC53、鷹司さんのC53
「国鉄時代」を見ていたら、急行旅客列車の項に、見覚えのあるC53の写真が出ていた。
まず高田隆雄さんのお撮りになったC53で、これは「鉄道ファン」誌や、
当時の世界ナンバーワンの趣味誌「Trains」にも掲載されていたはずだ。
若干後追いの美しいフォルムをとらえた特急つばめの名作は、私の頭から離れたことはない。
鷹司さんの写真は、瀬田川を渡る流線形。いずれもサイドビューで機関車中心、
全編成を入れる今風の特急写真と異なるところが特徴的と言えそうだ。
高田さんのC53つばめ 「国鉄時代」No55より
お二人は当然私より年上、地位のある大先輩で、社会通念からすれば
対等に話などできそうにないところだが、同じ趣味ということで
分け隔てなく接してくださった。
もちろんお人柄によるところも大きかった。
鷹司さんのC53に接したのは私の学生時代で、交通博物館1階のご自身の席に座って、
どなたかと手元の写真について話をされているところだった。
鉄道友の会の例会が始まる前だっただろうか、私たち機関車グループの連中は
鷹司さんの背中越しにその写真に眺め入った。
手に持たれてい流線C53はカビネにプリントされ、どこかの一般誌に掲載予定だったようだ。
対話している大人たちは、鷹司さんの右手、課長席の後ろあたりに3人ほどいらっしゃったが、
内容はほとんど覚えてない。淡々とした話の内容から、最初私は誰かが撮った写真について
話がなされているように感じていた。
鷹司さんのC53つばめ 「国鉄時代」No55より
どこで撮ったのか、小学生なのにどうして撮れたのかという素朴な質問が聞こえ、
初めて鷹司さん自身が撮ったC53なんだと理解した。その時の鷹司さんの答えは
記憶にないが、ごく自然に、普段の生活の範囲内で捉えたものという雰囲気だった。
小学校が京都だったのか、それともその時期 京都にいたのかは不明。
東京と京都の関係も知ってないが、ご自身のお墓は京都にある。
ちなみに大学時代は、奈良の日吉館に下宿されていた。奈良といえば
日吉館という代表的?下宿の有名館。
「あそこはね、日吉館でなく、冷やし館」 とご自身が語るように、
隙間風の入るので有名だったそうである。
鉄道友の会は神田の交通博物館に事務所を置き、分科会や支部も構成されていた。
私は発足から参加し、人間関係から機関車グループに所属していた。
会の事務的な事柄などは、ほとんど鷹司さんが引き受けていた。
博物館の講堂で行われる例会をはじめ、EF50のお別れ会、DF50の撮影会、
キハ55による日光往復旅行など、すべてまとめ役は鷹司さん、友の会にとって、
なくてはならない存在だった。
EF50最後の仕業に集まったファン。上野駅 1956-11-18
鷹司さんはトレインマークの後ろ。西尾源太郎さん、星山一雄さん、鈴木靖人さん、
吉川文雄さんのお顔も見える
EF50にトレーンマークを渡す鷹司さん、上野駅 1956-11-18
機関車グループは友の会の一部というより、独立した仲間グループという存在だった。
大きく逸脱はしないものの、好きなことを好きなように行動していた。
小名浜臨港1泊旅行もその範疇で、会に行動を届けるでもなく、夕方の鈍行415系に乗って小
名浜に向かっている。
この時は行き先もユニークなので、鷹司さん、吉川文夫さんも参加してメンバーは10名ほどだった。
宿は当たり前のように予約など入れてない。学生さんならということで素泊まり格安、
駅前商人宿に宿泊している。ベージュのハンチングを被った鷹司さんも、いつの間にか
学生になっていた。
その夜はほかに宿泊客がいないことを理由に、遅くまで騒いだ。お酒は鷹司さんの差し入れ。
誰かがアッシーになって酒屋の門をたたいた。
よく朝は四ツ倉のA8の撮影。はつかりC62とA8の並びも狙った。小名浜の古典機は最高だった。
好天に恵まれ、渚にも足を延ばした。
機関車グループは飲み会も行っている。田町の町田屋で、4~5回ほど。
町田屋は三田通りに面した蕎麦屋で、2階の座敷から都電の7番が見えた。会費は300円ほど。
めいめいのお膳にお銚子が1本、小鉢2つ、締めに盛そば一枚がすべてだった。
これで3時間は粘っただろうか、この時代の定番のように全員でY歌を歌い、
最後はメンバーに関係ない大学に敬意を表す校歌を歌った。
鷹司さんはほとんど皆勤。NHKラジオ 話の泉 のお仲間、堀内敬三さん、
組紐の道明しんべいさんを誘って来られることもあった。お二人も機関車ファンである。
話の泉 といえばあるとき 次の2つの音楽に関係あるものは何? という問題が出て、
炭坑節と 煙が目に染みる という曲が流れた。すかさず手を挙げたのは常連の鷹司さん。
NHKアナウンサーがびっくりして、ハイでは鷹司さんと云っていいのかどうか一瞬間があった。
でもご本人は「煙で目が染みます」と素直に答えられた。その時、戸惑ったような
ほっとしたような空気がラジオから感じられ、私も安堵した記憶がある。
堀内敬三さんは作曲家で、ラジオや新聞にお名前がよく出ていて、当時、文化人と呼ばれていた。
音楽通、それもクラシック大好きの鷹司さんは、堀内さんやほかの音楽家との話の合間に、
一度オーケストラの指揮をしてみたいと漏らしたことがある。まぁ音楽好きなら誰もが夢見る。
それを聞いた関係者が、
「うちの楽団のこれこれの曲なら、もしも指揮を失敗してもちゃんと演奏できますから、やりませんか」
と云われたそうだ。
「しかしねぇ、それでは面白味がないし、週刊誌などに悪く書かれたりしたら・・・」
ということでお断りしたそうだけど、とても残念そうでした。
これと同じように、2~3回聞いたのは、フルトベングラー。
偉大な指揮者で来日もしているが、これに対し日本のH・Kは、ひじから先しか動かさず、
団員が戸惑うから フルトメンクラウ!
鷹司さんの愛車は、長いこと モーリス だった。比較的小さな車で愛らしい形をしていた。
色は渋めのライトグリーン。
あるとき機関車グループの全員を乗せるといったのでみんなで乗り込んだ。8人いただろうか、
全員がぎちぎち収まった。
さあこれから銀座に向かうぞというものの、さすがに事故など迷惑をかけてはと、
走るのは控えていただいた。
しかしこのままお堀の直線を疾走したら爽快だったろうと、今にして思えば…。
鷹司さんの家は千駄ヶ谷にあった。あるとき、機関車グループ全員がご招待を受けて伺った。
しかし当時の学生は裸足にズック靴というものもいて、上がったとたん、上がり框にべったりと足跡が!
出迎えの和子様の明るい笑いを誘った。
もてなしの仕方も奥ゆかしかった。
それぞれのごちそうは、最初、一人分ずつ和子様が丁寧に運ぶと、目の前に静かに置いてくださった。
毎回 厨房から居間へ、人数分往復された。
ちょっとかしこまったけど、楽しい集いだった。
C53流線形、「国鉄時代」の写真を改めて眺めると、過ぎ去った半世紀昔の一コマ一コマが思い出され、涙した。
鷹司さんたちとの思い出は、半分ほど記したようだ、今回は ここらへんで・・・。