見ている心は同じ
天気予報通りの寒波です。昨晩から強い風が吹き始めて、明け方にはすごい音で目が覚めました。昼間も青空が広がったと思ったら、その直後に吹雪。完全に冬に逆戻りしています。日本海側では大雪のようですね。
寒いですが、去り行く冬を思うと愛おしいような気もします。スーパーの果物売り場はイチゴと柑橘類で占められていて、もう冬が過去のように感じてしまいます。そんな私の大好物がこれです!
「はるみ」という名の柑橘類です。「清見」と「ポンカン」を交配したものだそうです。甘さと酸味のバランスが最高で、袋が柔らかいのでとても食べやすい。数年前に初めて食べてから、この時期は毎日と言っていいくらい食べています。出回る時期が限られているそうですので、食べられる間は楽しもうと思っています。今夜も夕食の後に、この写真の「はるみ」をいただいちゃいま〜す!
さて、今日の午前中に連載小説を書いていて感じたことがあります。主人公の「俺」が20年ぶりくらいに友人と会うシーンを書いていました。その時ボンヤリと考えていたのですが、私たちが何かを「見ている」時の心って、もしかしたら子供の頃と同じではないのかと思ったのです。心って言うと、ちょっと違うのかなぁ……。うまく説明できません。
私が52年余り見てきた世界は、確実に変化しています。昔の映像を見ると、明らかに昭和の世界が現在とは違うことがわかります。でも「見る」という行為自体、何ら変わることがないように思うのです。40年前の私と現代の私は、全く同じ意識の「私」が世界を見て知覚しているように感じるのです。何が違うかと言えば、時間が経過しているという私の「思い込み」だけなのではないかと……。
時間が経過して世界は変化し、年配の人は亡くなり、友人たちは年齢を重ねる。そのことを受け入れているから、自分も歳を取ったと感じる。鏡の向こうの自分は、若い頃と比べて明らかに老けています。でも私が見ているのは「私」ではなく、鏡に写った像でしかありません。「見る」という「私」の心や意識の機能は、子供の頃と同じ働きをしているのではないかと。
生まれつき目が見えない人は、時間の経過や「老い」というものを、どのように感じるのでしょうか? 家族や自分が老けていく姿を見ることはありませんね。もしかしたらその人の心は、子供の頃と変わらないピュアな意識を持っているのかもしれません。時間を超越しているのでは、と想像してしまいます。生まれたての子供のように出会う物事に感動して、ありのままに見つめる。それは本来の私たちが持っている能力なのではないでしょうか。
心は同じものをピュアに視覚を通じて捉えているのに、人間としての記憶や経験がその体験を歪めているのではと思ってしまいます。わかりにくい話題ですいません。言葉でうまく説明できない感覚なのです。こんなことを書きながら、私もそうした思い込みに支配されています。
来月に私の青春時代のアイドルであるオリビア・ニュートン=ジョンが、久しぶりに来日します。大阪にも来るので、ライブに行くかどうか随分迷いました。私の記憶には15歳の時に京都のライブで見たオリビアの姿が焼きついているからです。現在のオリビアも、年齢を重ねましたが素敵な女性であるのは映像で知っています。でも私にとっての天使であるオリビアは、その頃のオリビアなのです。実際に目の前で今のオリビアに会って、過去の記憶が上書きされることに抵抗している私がいます。
同じ心で見れば、そこに同じ天使の姿を見るのでしょうけれどね。時間という思い込み支配されている私には、無理そうなのでライブを諦めました。そんな葛藤を抱えるのが人間たる所以でしょう。やっぱり私の青春時代のオリビアは、誰が何と言っても私の天使なのです!ということで私の天使を紹介しますね〜〜
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