物語を書くということ
雨を予想していた土曜日ですが、何とか傘を持たずに買い物に行くことができました。夜中にはかなり降ったような様子です。
アジサイと雨は似合いますね。これでカタツムリがいればパーフェクトなのですけれどね〜!
思ったよりも涼しい気温でしたので、汗をかきながらも往復歩きました。
さて今日もランチをしてから先ほどまで仕事に集中していました。物語を書きながら、自分にとってそのことがどういった意味を持つのか考えていました。
大きく分けると、ふたつの要素があるように思います。
ひとつは、自分が経験してきた、あるいは知識として積み上げてきたスピリチュアルに関することを物語に織り込みたいということです。そうすることで、スピリチュアルやオカルトに関心がない方にでも、本当の自分とは何かを考えるきっかけになればと願って書いています。
もうひとつは、私の心の奥深くに関わるものです。そしておそらく小説を書いている人たちが、共通して持っているものだと感じます。それは……。
『物語を書くことによって、自分が救われる』ということです。
もっと直接的に言いますと「自分の心を救うために、書かずにはいられない」ということです。
私は関西弁で言うところの、「気にしぃ」です。どうでもいい些細なことでクヨクヨ悩む性格があります。
例えば、ヒッチハイクをしている人に声をかけられずに通り過ごしてしまった。
子猫の声が聞こえたような気がするダンボール箱を見て、中を確かめずに通り過ぎた。
重そうな荷物を持っている年配の人に、声をかけそびれた。
こんな経験をすると、自宅に戻ってからウジウジします。どうして勇気を持ってその場で行動できなかったのかと、自己嫌悪と自己否定に苛まれます。今さらどうしようもないことだとわかっていながら、クヨクヨと考えてしまうのです。
とてもしんどい性格です。すぐに行動するか、全く気にしない性格なら楽なのですが。そんなモヤモヤが溜まってしまうと大変です。それらを手放す必要があります。そこで自己満足でしかありませんが、想像を巡らすのです。
あのヒッチハイクの女性は、その後親切な人に声をかけられた。その人は運命の人で、その後に結婚した。
飼い猫を亡くしたばかりの人が通りかかり、子猫を助けることで、猫もその人も救われた。
重い荷物を持っていた女性は、横断歩道を歩いている途中で男性に助けられた。それは若い頃に生き別れになった実の息子だった。
な〜〜〜んてね。こうした物語を想像することで、自分の心の着地点を求めているような気がします。もちろん意味のないことだとわかっています。でもそうせずにはいられない。
物語を書きたいと思い、それを結末まで仕上げる。そのようなことをやろうとする人たちは、そういう部分を持っているように思うのです。私の勝手な独断ですけれどね〜!
そう思うと東野圭吾さんも、いろいろな思いを抱えておられるのではと感じました。昨晩に読了した本です。
『夜明けの街で』東野圭吾 著という本です。
今まで読んだ東野作品のなかでは、私にとってはイマイチだった作品です。全体にテンポ感が悪くて、取り扱っているテーマも暗い。かなり苦手な作品でしたが、著者が心に抱えている重いものが垣間見えたような気がしました。
主人公の渡部は、結婚まで考えている秋葉という名の女性が、15年前の高校生の頃に殺人を犯しているかもしれない、と感じます。信じようとしますが、状況証拠はそう語っています。そして彼女の口から、間近に迫った時効を待ち望む言葉が発せられます。
15年前、秋葉が自宅にいるとき、父の秘書が殺害されたのです。警察の捜査では強盗殺人とされるのですが、被害者の家族は秋葉を疑います。執念で15年間も秋葉の周辺を調べますが、決定的な証拠が出ません。そして時効を迎えた深夜、秋葉から衝撃の事実が語られるという物語です。
その告白にはかなり驚きますが、後味の悪さが残る小説でした。もしかしたら東野さんも、何か書かずにいられないものを持っておられるのだろう、とこの小説を読んで感じました。
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