人生で探し求めるもの
すっかり平日モードの神戸です。お昼前から晴れ出して、夕方には雲ひとつない青空が広がっています。街は完全に正月モードから脱しましたね。
でも小学校はまだのようです。明日は土曜日だから、もしかして連休明けの10日が始業式なの? それとも今日が始業式だったのでしょうか? 我が家には子供がいないのでよくわかりません(笑)
午前中にいつもの道を歩いていると、「久しぶりだわね。お元気にしていらした? 今年もよろしくお願いしますわ」というレディーの声が聞こえました。
でも正確にその音声を再現しますと、『ミャオ〜〜ン!」となります(笑)
声をかけてくれたのは我が家のアイドルである、のぶニャンでした。以前から寝ぐらにしていた古い民家が取り壊され、別のとある家で寝る場所や食事を確保してもらっています。でも基本的に自由に暮らしているニャンコです。
昨年の夏以降から顔を見ていなかったので、ちょっと心配していました。ところが今日は自分から声をかけてくれて、元気な姿を見せてくれたので最高に嬉しかったです。とても元気そうで、たっぷりと食事をもらっている身体つきをしていました。
まさか今日会えるとは思っていなかったので、素敵なプレゼントをサプライズでもらった気分でした。これから寒さが厳しくなりますが、あの様子なら元気で乗り越えてくれるでしょう。
さて今年になってから、文庫本で合計1,000ページ近くになる村上春樹さんの長編小説を読んでいます。まもなく読了するのですが、その小説を読んでいて強く感じたことがあります。
人間という生き物は、自分にはない『何か』を求めて人生を生きている。でも人生でそれを決して得ることはない。
そんなことを感じました。人生とは『何か」が欠けていると思うことで、その『何か』を追い続ける旅ではないかと思うのです。でもその『何か』をどうしても得ることができない。でも求めずにはいられない。ぽっかりと心に穴が開いたように感じ、それを埋めるために必死になります。だから最後の最後まで生きようとするのです。
では、その『何か』とはどのようなものでしょうか?
ベタなイメージですが、頭に浮かんだのはジクソーパズルです。でもとてつもない大きさで、宇宙全体を占めるほどの大きなジクソーパズルです。それはたった1枚の絵画でした。でも粉々に砕かれて小片となって存在しています。
その1個のピースを、わたしたちは『自我』と呼び、自分だと思って生きています。でも本来は1枚の絵画だったわけですから、当然ながら『何か』が欠けていると、意識的に、あるいは潜在的に感じています。
わたしたちの意識には、完成した1枚の絵画と、バラバラになった1個のピースが一体となって存在しています。だから完璧な状態を知っています。それゆえに、ピースとしての意識は『自我』を不完全だと思ってしまうのです。そしてそれは『自我』である限り、いつまでも消すことのできない喪失感です。
人生の目的は、そうした自分の喪失感を埋めてくれる、別のピースを探すことではないでしょうか? でもとてつもなくでかいジグソーパズルです。自分の一部だとは理解していても、遠く離れたピースとは親近感を持つことができません。
わたしの『自我』が属するピースが、ヒマワリの花を構成する小片だとしましょう。ジクソーパズルを完成させた方なら経験があると思いますが、まずは近い場所から完成させていきます。それと同じように、わたしはヒマワリを構成するピースを求めるでしょう。
人生で出会う家族や友人は、そうした同じ図柄を構成するピースなのではないでしょうか? そして親子や配偶者となるような人は、わたしの『自我』のピースに隣り合わせになっているピースだと思うのです。ピタッと型にはまる感覚があるので、一緒にいるだけで落ち着くのだと思います。喪失感を癒してもらえるのです。
ところが面白いのは、このジグソーパズルの絵画は固定されたものではありません。実はとても複雑に進化していく動画なのです!
常に形を変え流動的な構造を有しています。実際のジクソーパズルのように2次元的なパズルではなく、多次元構造を持つパズルです。だから人生には出会いと別れがあるのでしょう。そのパズルの流動性を維持させているのが、『死』という概念だと思います。
子供のころから現在までの人生を振り返ると、様々な人と出会い、別れてきました。もう二度と会うことのない人が大勢います。でも触れ合ったことで、パズルを完成させようとしたのは確かです。そして自分が死ぬ瞬間まで、喪失感を埋めようとして生きていくような気がします。
とりとめのないことですが、その小説を読んでいてそんなことを感じました。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。