なぜ他者の孤独が見えるのか?
数日前に春一番が吹いた近畿地方。ところが今日はそのとき以上の強い風が吹くとの予報。
はい、たしかにそのとおり。明け方まで降っていた雨はやんだけれど、台風並みの風が吹き荒れていた。
JR六甲道駅近くのビルの谷間を進もうとして、強い向かい風のせいでボクも妻も一歩も動けない。あわててビル内に避難して、遠回りしてようやく自宅に戻ることができた。そんな道草ついでに、自宅から徒歩5分くらいの絶景地にやってきた。
このとんでもない坂をゼーゼー言いながら登らないと、見ることのできない絶景。スマホでは限られた場所しか切り取れないけれど、左は大阪のビル街、右は神戸港が広がっていて、なんとも爽快な景色。
風は強いけれど、気温が高いので気持ちよかった。久しぶりに絶景を肌で感じて、街が生きていることを思い出した。
遠景で見ていると、人間一人ひとりの営みまで見えない。でもその景色の向こうで、大勢の人が今日のドラマを生きている。笑っている人も、泣いている人も、怒っている人も、幸せを感じている人もいるだろう。見えないドラマが渦巻いているから、街は生きていると感じるのかもしれない。
そんなことを感じさせてくれる映画を観た。
『恋のためらい フランキーとジョニー』という1991年に公開されたアメリカ映画。
ボクは公開時にこの映画を観て、ミシェル・ファイファーの大ファンになってしまったという作品。先日『ヘアスプレー』というミュージカル映画を連続して観たとき、この映画の彼女に会いたくなった。
同時に同じ『ヘアスプレー』に出演しているジョン・トラボルタとザック・エフロンの、別人役を観たくなった。ということでそれぞれ借りてきたので、その第一弾がこの映画。
何回も観ているけれど、かなり久しぶりだと思う。監督は『ニューイヤーズ・イブ』や『バレンタインデー』という映画を撮影した、ゲイリー・マーシャル。この監督は主人公に焦点を当てながらも、その他の登場人物を見事に光らせる名人。
この映画はフランキーを演じるミシェル・ファイファーとジョニーを演じるアル・パチーノのラブストーリー。でも二人を通して物語を進めながら、その周囲の人たちを見事に描いている。ボクがこの映画を大好きなのは、ニューヨークに暮らす人たちの息づかいが聞こえてくるから。
もちろん主人公の二人が大好き。ジョニーは刑務所から出てきたばかり。彼は人生が一度終わったと感じている。妻は別の男性と再婚して、二人の子供も新しい父親の元で幸せに暮らしている。そこでの生活は、郊外の裕福な家庭を象徴するようなものだった。
その日の暮らしをコックをしながら必死で生きているジョニーにとって、それは耐え難いほどの孤独だった。自分には教育も財産もない。そのコンプレックスをはねのけようとして必死で辞書を読んだりするけれど、人生はそううまくいかない。
もう一度誰かを愛したい、そして愛されたい。そんな切実な思いを抱えて、フランキーに接する。それは不器用すぎて、空気が読めず、はっきり言ってキモい。これはアル・パチーノの演技力があるからこそできる役柄だと思う。
そんなキモい中年の男なのに、なぜそこまで必死になってフランキーを求めたのか?
それはフランキーがジョニーと同じ孤独を抱えていたから。もう二度と誰も愛さない、と心に決めている彼女の孤独を、彼のなかで強く感じていたからだと思う。自分が孤独だから、他者の孤独が見えるのだろう。
そんなフランキーは、抵抗しながらも少しずつジョニーに心を開いていく。それでも深く傷ついた心を、どうしてもジョニーにさらけ出すことができない。ラストシーン近くで彼女が号泣しながら自分の心の内を吐露するとき、その痛みが自分のことのように伝わってくる。とても切ない。
もうこの二人はダメなのかな、と思ったとき、ジョニーがリクエストしたフランキーの好きな曲がラジオから流れる。
それはドビュッシーの『月の光』。ボクの大好きな曲。
この曲が流れるなか、きっと二人はうまくいくよ、という気持ちにさせてもらえる。そして同時に、この映画の登場人物たちの姿が二人に重ね合わされる。このラストシーンがゲイリー・マーシャルのマジックだと思う。
『月の光』の優しく美しいメロディと、ニューヨークの街で必死で生きている人たちの姿が共鳴する。きっとこの瞬間を観客に見せたくて、監督はこの物語を紡いできたのだと思う。心優しくなれる、とっても素敵な映画だよ。
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