これほど効果的な皮肉はない
小林麻央さんが亡くなった。市川海老蔵さんのブログは開設当初から読んでいるし、麻央さんのブログも昨年のスタートから欠かさず読んでいる。だから今日のような出来事が、遠くない日に来ることはわかっていた。だけどやっぱりショック。
親戚でもないし個人的な知り合いでもない。だけど海老蔵さんのファンとして麻央さんの回復をずっと願っていたし、ふたりの子どもたちの成長もブログやドキュメントを通じて見守って来た。だから他人事のように思えない。
海老蔵さん夫婦のそれぞれのブログから、「奇跡を信じている。奇跡を起こす」という文章をかなり以前に見たとき、事態の深刻さを思い知らされた。だけど『奇跡』は起きなかった。
今日の午後からの海老蔵さんの記者会見を見て、もらい泣きしてしまった。朝のうちは普通にブログを更新されていたけれど、それはきっと少しでも騒ぎにならないようにとの配慮だと思う。子どもたちをマスコミの攻勢から守るために、必死だったんだろう。
だけど事情を知ったマスコミが自宅周辺に集まり、このままでは隠しておけない。そこで3つ目のブログで亡くなったという事実を匂わせ、松竹からの記者会見の通知となったのだろうと想像している。
とりあえず会見を開かなくては、いつまでも付きまとわれるし、来月に舞台を控えている息子さんにも影響が出る。だから記者会見をされたのだろう。ものすごく強靭な精神力だと思う。今日のブログにも海老蔵さん自身が書かれていたけれど、こんな日でも舞台に立つことが役者の宿命なんだろうね。並大抵の人間にはできない。
表現者を生業としている人は、そのことに命をかけている。それは海老蔵さんのような歌舞伎役者だけでなく、舞台や映画の俳優さんでも、作家でも、音楽家でも、そして画家でも同じ。何かを表現するためにこの世に生を受けて、そのことにすべてのエネルギーを注いでいる。
そんな命をかけた表現者が監督した映画を観た。
『ゲームの規則』という1939年のフランス映画。
映画のストーリだけを追うと、実にくだらない作品。社交界の貴族たちが別荘に集まって、パーティーでどんちゃん騒ぎをしているだけの映画。ただ自分たちの快楽だけを追いかけている。
男も女も、夫や妻を無視して好きな異性を追いかける。狩をしたり、仮装パーティーでバカな芝居をしたり、ベロベロになるまで酔いつぶれる。この映画にまともな人間は登場しない。誰もが自分の欲望のままに生きている。貴族としてのプライドだけで、かろうじて人間しての姿を維持している状態。
そしてラストに、妻が浮気としたと誤解したシュマシエールという庭番が、人ちがいで男を銃殺してしまう。そして偶発的な事故として終わり、誰もがまたいつもの自堕落な生活に戻っていくという映画。
だけどボクはすごい作品だと思った。それは最初から観ないとわからない。映画の最初にこんなテロップが流れる。
「この作品は第二次世界大戦の前夜が舞台であるが~当時の風俗を忠実に描写したものではない、人物はすべて架空である」
そう1939年といえば、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった年。9月にはドイツがポーランドに侵攻して、すぐにフランスとイギリスがドイツに宣戦布告している。最初にこの映画が公開されたときは、まだそんな大それた出来事が起きるとは一般には思われていなかった。
だけどこの映画の監督は、そうした世界の情勢を察していたのだろう。平和ボケしていなかった。だから事態の深刻さも知らず、浮かれた生活を送っているフランスの貴族たちを皮肉るためにこの映画を作った。ある意味命がけの行動だろう。
ラストで誤解をして銃を撃つシュマシエールという名前はドイツ系だと思う。つまり本気か誤解かに関わらず、ドイツのナチスが武力行使することを示唆している。ボクはこのシーンを観て思わずうなってしまった。まるで予言者のよう。
公開時はその意図が理解されず、興行的には失敗に終わった。だけど実際に戦争が起き、終戦後に再上映されてからこの映画の真意が伝わってヒットしたとのこと。実際に悲劇が起きないと、誰も気づかないということだよね。
これほど効果的な皮肉はない。ボクは映画を観ながら驚嘆していた。第二次世界大戦という事実を知って観ているから、貴族たちの馬鹿さ加減がブラックジョークすぎて笑えない。鳥肌が立つような言い知れない恐怖を覚えた。もしかしたら、今の時代と重なる部分があるのではないだろうか。
この勇気ある作品を監督したのは、ジャン・ルノワール。名前でわかるとおり、あの印象派の画家であるピエール=オーギュスト・ルノワールの次男。
古い映画だけれど、素晴らしい作品だった。映画という芸術に関して、ボクが今まで知らなかった新しい魅力を教えてもらえた。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。