過去を変えたいと思う時
今日も快晴の神戸。夕方になって雲が目立ってきたけれど、朝から昼過ぎにかけては雲ひとつない青空だった。
買い物途中にふり返った六甲山は、青空を背景にして美しい稜線を描いていた。風もさわやかで気持ちいいので、散歩するのに最高の気候だったなぁ。
でも明日からまた下り坂。そして台風22号も近づいているらしい。マジでウンザリなんだけれど、自然のことだから仕方ない。できるだけ外れて欲しいと願うしかない。台風21号の大雨でまだ土は多くの水を含んでいるだろうから、ちょっと心配だよね。
今日の午後からは新しい小説の2回目の推敲に入っている。書き直すことが好きなので楽しい作業なんだけれど、今年の4月から6月にかけて改訂した『ゼロの物語』はかなり苦労した。
新しい小説はつい最近の自分が書いたものだから、それほどギャップはない。だけど4〜5年ほど前に書いた作品は、まったくの別人が書いた作品を見るようだった。だから文章を推敲するのに、一から書き直すような状況だったので大変だった
それでも改訂したかったのは、今回の販路拡大に際して読み直すことで、『今』の自分とはちがうと感じたから。そういう意味では小説において、あまり過去の作品を読み返さないほうがいいのかもしれない。ついアラが目について、訂正したくなってしまう。
切実なまでに過去の作品を訂正したいと思うのは、今の自分という視点で見ているから。つまりそれを書いた当時とは、自分という人間は同じではない。許容できる範囲の変化なら見逃すことができる。だけどそのギャップが開きすぎると、今回の販路拡大に際して以前のまま放置するわけにいかなかった。
人間というのは常に変化している。その変化がプラスかマイナスかは分からない。だけどずっと同じ自分が続くなんてありえない。だから過去をふり返ったとき、その感じ方で変化を知ることができる。
これは小説のような作品だけでなく、人間の記憶としての過去も同じだと思う。過去の事実は変えることはできない。だけどそれをどのようにとらえるかは、ふり返ったときの自分によって変化させることができる。
ある出来事をふり返ったとき、その出来事から1年後の自分と10年後の自分では、とらえ方がちがっていて当たり前。それが成長であり進化というものだろう。
だから過去の出来事を変えたい、つまりとらえ方を変えたいと思ったときは、今の自分が変化したという証明だと思う。悲しかった出来事、辛かった出来事も、自分が次のステージに立ったとき、必要な経験だったと思えるかもしれない。だけどその直後には、そんな心の余裕はない。
過去を変えたいと思うとき、今の自分の変化を実感するのはいいこと。だけど注意するべきなのは、その変化がプラスに作用しているか、マイナスでしかないか、やってみないと分からないということ。自分が成長したと自覚していても、もしかしたら退化かもしれないからねw
だからこそ過去を変えたいと思ったときは、迷わず行動するべきだと思う。そうすればフィードバックを得ることができる。そこから判断して、次の方向性を決めればいい。過去というのは、そのために存在するものだと思う。今の自分を知る試金石になるんだろうね。
ということで、明日もせっせと日々過去となっていく新作の小説を直していこう。いつもいつも、その日の自分に合ったものにしていきたいから。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。