ボクには趣味がない
今日は不思議なことがあった。買い物をした帰り道、自宅近くの大きな道路で見慣れない消防車を発見。六甲山の方角から坂を下ってきたんだけれど、なんと『長崎市消防局』とボディにペイントされている。
なんで長崎なん? と不思議に思い、面白いので写真に撮ろうとした。ところがその直後、もっと不思議な乗り物が消防車におおいかぶさった。
そのときの写真がこれ。
神戸市の路線バスで106番の表示もされていた。六甲ケーブル下駅からJR六甲道駅まで走っている普通のバス。ところが窓がない。全面に神戸市営交通100周年をうたった塗装がされている。左側もまったく同じ。こんなバスを初めて見た!
お客さんは乗っているはず。だったらなかはどうなっているのだろう? おそらく外の景色は見えないだろうね。今度見かけたら、ぜひ乗ってみよう。あまりに驚いたので、長崎の消防車のことが頭から吹っ飛んでしまったwww
さて、ボクは趣味と言えるほど継続的にやっているものがない。映画や読書は大好きだけれど、今やボクにとって小説を書くという仕事の一部になっている。仕事と分離して、余暇に楽しむというようなものではない。
音楽を聴くことも、趣味というよりは仕事をするうえでのモチベーション維持や、集中力の継続を助けるものになっている。お酒も1年に数回しか飲まないし、パチンコや競馬等のギャンブルもまったく興味がない。最近は宝くじさえ買わなくなった。
趣味がないなんて、人間として不適格だと言われそうな気がする。だけど同じことをエッセイで語っている方の本を読んで、とてもうれしくなった。
『無趣味のすすめ』村上龍 著という本。
作家として名前を知らない人はいない村上龍さんのエッセイ集。雑誌で連載されたエッセイを集めたもので、小説を書くことについて書かれていたので読んだ。そのなかで趣味について書かれたものを読んで、我が意を得たりと感じた。その部分を抜粋させていただく。
以下抜粋〜
わたしは趣味を持っていない。小説はもちろん、映画製作も、キューバ音楽のプロデュースも、メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ。息抜きとしては、犬と散歩したり、スポーツジムで泳いだり、海外のリゾートのプールサイドで読書をしたりスパで疲れを取ったりするが、とても趣味とはいえない。
現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属する共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて完全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。
心を震わせ、精神をエクスバンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。
〜以上抜粋。
全面的にそう思う。ボクの感覚には、仕事と余暇の区別がない。去年の冬至から1日も休まずに小説を書き続けているのは、ボクのなかに『仕事」と対比的な存在としての、「趣味」や「余暇」という概念が希薄だから。
人に話せる趣味がないことを気にしていたけれど、村上龍さんのエッセイを読んで勇気づけられた。もちろん趣味を持っている人を非難しているのではなく、趣味を持たない生き方もあるということ。これからは堂々と「無趣味」であることを宣言していこうと思った。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。