何を捨てて、何を変えるか
人生において何かを残すということは、同時に何かを捨てることでもある。トレードオフというのは人生の法則にも当てはまる。何もかも残そうとすれば、心のなかはゴミ屋敷のようになってしまうだろう。
そして何かを残すということは、何かを変えることでもある。残すには役に立たないと思っても、それを少し変えることで必要不可欠なものになることがある。
人間というのは自分が生きた証を残すため、常に何かを捨て、何かを変えている。その作業を意識的であれ無意識的であれ、ひたすら継続している。だからこそ人生は面白いし、諸行無常であることを実感できる。
昨日ある小説を読了して、こんなことを考えていた。それは映画と原作の関係から感じたもの。
『小さいおうち』中島京子 著という小説で直木賞の受賞作品。
この物語は先に映画を観た。そのときの感想は『半世紀を超えて開封された手紙』というブログに書いている。映画がとても良かったので、どうしても原作を読みたくなった。
いままでの経験からいうと、映画を先に見て原作を読むと、どうしても映画の評価が下がってしまう。以前にも書いたけれど、小説と映画では表現できる情報量がまったくちがうから仕方ない。今回もその覚悟で原作を読んだ。
ところがこの物語に関しては、映画の評価が下がるどころか、ボクのなかでグイッと上昇した。もちろん圧倒的に原作の情報量が多いのは事実。映画では知らなかったエピソードがいくつもあった。
主人公のタキが終戦直前と直後に、どのような生活を送っていたのかについて、くわしく書かれている。焼け落ちた『小さいおうち』の近くで、恭一の友人の父と再会して、ブリキのジープを預かるシーンなんて、映画にはないけれど感動で涙がポロポロ出た。
もうひとつ映画にないシーンで感動したのは、一度田舎に戻ったタキが、空襲の直前に東京へ戻ってきている場面。昭和20年3月のことで、まだ時子は生きていた。5月の空襲で亡くなるけれど、その2ヶ月前に二人が再会していたシーンは、できれば映画に入れて欲しかったくらい。
だけど原作を読了した感想としてもっとも言いたいのは、映画の脚本がどれほど素晴らしいかということ。この物語のエッセンスが過不足なく詰め込まれていて、原作と比べてなんの遜色もない。むしろ原作を超えていたかもしれない。
さすが山田洋次さんだよね。この原作において、何を捨てて、何を変えるかについて、完璧な脚色がなされている。ボクは原作を読み終えて、あの映画が完璧に脚色されていたことに感動した。
だから、自分の人生をこんなふうに脚色できればいいな、と思ったんだよね。何を捨てて、何を変えるか。きっとこれからも残りの人生で悩み続けていくんだろうなぁ。
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