未来生も過去生も知りたくない
小説や映画において、ボクはタイムトラベルものが大好き。だからもしタイムマシンがあるとしたら、歴史上の人物に会ってみたい。ただし身の安全が確保されているという条件付きだけれどねwww
だけど未来は知りたくない。それと同じくらい、個人的な過去生も知りたくない。なぜなら、どう考えてもデメリットのほうが多いから。そして面白くないから。
今日、妻と話していたことがある。例えば今年の冬に新しいジャケットを買ったとしよう。いままで着たことのないようなデザインや色だと想像してほしい。もしそのジャケットを着た写真を、1年前のボクが見たらどう思うだろう?
そのジャケットを意識するのは確実。いつどこで買うのがわからないけれど、1年後の自分が着ているんだからどこかで買うはず。だからその写真を撮影した時期が近づくと、お店へいくたびにそのジャケットを探すことになる。これはどう考えても不自然で面白くない。
もしそのジャケットが使用に支障のない程度のアウトレット商品で、ほぼ半値で買ったものだとしよう。それを見つけた喜びと満足感は、その値段で手に入れたことによるもの。
だけど1年前にそのジャケットの存在を知っていたら、正規の商品を定価で買っているかもしれない。そこには発見した喜びも、お得な商品を手に入れた満足感もない。ただそのジャケットを着るという事実を知っていただけのこと。
だからボクは未来を知りたくないし、未来生も同じく興味がない。
これは過去生についても同じ意味合いで知りたくない。ボクが今年になって書いた小説で、犯罪を犯した人間が記憶を消され、同じような状況の仮想世界に送り込まれるという設定にした。
つまりもう一度同じ状況に追い込まれたとき、罪をくり返さないかを更生できるかどうかの判断材料とするため。自分の過去の失敗を知っていたら、それにそなえて同じ過ちをくりかえさないように意識するだろう。それでは真の意味で更生とは言えない。
自分のいまの人生においては、そのような学習が大きな意味を持つ。だけど記憶のない、あるいはあえて記憶を失くしている過去生の出来事を知るのは、いまの人生における貴重な体験を無駄にしているようにしか思えない。知らないからこそ、覚えていないからこそ、同じ過ちを犯さないことに意味がある。ボクはそう思う。
だからボクはピプノにはまったくもって興味がない。自分の過去生がどんな人間だったか興味はあっても、どんなことをやらかしたかなんて知りたくない。そんなことを知れば、いまの人生でやたら意識してしまう。知らぬが仏、という言葉は的を得たものだと思っている。
過去生でどんな失敗をやらかしたか知らない。そして未来にどんなことが待っているかもわからない。だからこそ、いまを精一杯生きようと思える。だからこそワクワクできるし、何かを達成したときの満足感が貴重なものだと思える。
妻とジャケットの話をしていて、こんなことを考えていた。忘れていることを思い出す必要はないし、どうなるかわからない未来も不確定のほうが面白いよね。できることなら死ぬ日を知りたいけれど、それもわからないからいいんだろうなぁ。
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